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鹿島神社(石岡市三村)

 石岡の高浜の対岸である三村地区を数回にわたって書いていきます。
前回は上郷地区の旧村社である須賀神社を紹介しましたが、石岡の人にもこの神社の存在はかなり浸透していそうです。

理由はこの神社の祇園祭がかなり激しいの三村の祇園に伝わるお囃子が石岡のお祭りに踏襲されているからだと思います。

しかし、私がこの町に抱くイメージは次の2つです。

1)平安時代後期の前九年の役と呼ばれる、源頼義と(八幡太郎)義家の親子が奥州に安部氏討伐に向かった途中にこの地を通っただろうこと。(11世紀半ば)

2)この地の山の上(現三村小学校)に天正年間(1573~1592)の初期に府中を守る大掾慶幹が南の小田氏防衛のために三村城を築城し、次男の常春を城主としたが、小田氏や小川の園部氏との争いの中、城は陥落し、若き25歳の常春が逃げ延びる途中自害して果てたということ。
これが府中大掾氏の滅亡につながっているということ。(16世紀後半)

三村3

あまりこのようなことを考える人が少ないようなので、少し国土地理院地図で考えてみたい。
上の地図で見てわかるように、三村は府中(石岡)の高浜とは恋瀬川をはさんで反対側(南側)にあります。

前九年の役で奥州に向かう源頼義親子たちの軍勢は地図にある「正月平」で正月を迎えることになりました。
わずかな住民はこの親子たちに自分たちでできる限りのもてなしをして正月を祝ったそうです。

このため、戦い終わって都に帰って親子から感謝の気持ちを込めて「黄金のはたし」が贈られたと石岡市史などには書かれています。
この地名もそれにあやかってめでたい「正月平」となりました。

もちろんこれがどこまで真実かはよくわかりません。
各地に鎌倉時代などにいろいろな伝説が作られました。

でも私はこの話を少し信じています。
「黄金のはたし」とは何でしょうか? 正確に書かれた記事は見かけません。
ただこの「ハタシ」といわれるものはこの部落より霞ヶ浦先端にある歩崎観音へ寄進されたといわれています。
この歩崎観音も長い間33年に1度しか開帳されずにきたので、このはたしも眠ったままでした。

しかし、数年前より8月の歩崎祭りの期間中に毎年開帳されるようになりました。
しかし「黄金のはたし」はありません。
昔あったといわれているのは竜女が安産祈願で無事子どもが生まれて寄進したと伝わる「黄金のはたおり機」でした。

昭和の戦争中?東京に展示で持ち出してから帰ってきていないで行方不明だそうです。

源頼義親子たちの軍勢はここから常陸国府(府中=石岡)にこの恋瀬川を馬で渡りました。
しかし沼のようにぬかるんでいて馬は足を取られて前に進めません。
そこで川岸に生えていた茅などを刈り取ってたくさんぬかるみに敷き詰めて川を渡ることができたといわれています。

古東海道の跡をおいかけてこのような話に遭遇すると、このあたりで昔は川を渡ったのかもしれないとつい話に耳を傾けてしまうのです。


今日はそんな中、三村の下郷地区の村社であった「鹿島神社」を探して行ってみました。

高浜から愛郷橋を渡って進み、突き当たり脇の道を左方向(石川の方向)に曲がりますが、すぐにまた右に曲がった、高浜からほぼまっすぐ進んだ位置にあります。

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この神社については古いようですが、現地にも何もかかれたものは置かれていません。神社名も記されていません。

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本殿です。
鹿島神社というのでタケミカヅチを祀っていると思います。
しかしこの神社と別に「香取神社」「息栖神社」も近くにあったようです。
明治になり香取・息栖の両社はこの鹿島神社に合祀されたようです。


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神社の古さはこの古木を見てもわかります。
さて、この神社には神主さんは常駐していないようです。

この神社というよりはこの近くに「羽成子」という地名があり気になっています。
羽成子=はなし と読むようですが、「羽梨」に通じます。

延喜式に書かれた常陸国式内社(茨城郡 3座)に「羽梨山神社」があり、平安時代の三代実録には羽梨神が書かれています。
これは現在笠間市(岩間)の羽梨山神社とされています。

しかし、小田氏が羽梨宮に集結して海を渡って小川の園部氏をせめたとなると、この羽梨宮はここの「羽成子」という名前と地形が一致します。
もしかしたらこの鹿島神社が延喜式式内社なのかもしれません。

前に書いた「三村城秘話」などと合わせて読んでみると何か面白そうですね。


高浜・三村地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2017/01/24 17:04
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