常春寺(三村)
高浜の対岸にあたる「三村」地区を散策しています。
昨日書いたようにこの三村小学校がある高台には府中城の大掾(だいじょう)貞国の弟の大掾常春(つねはる)が小田氏の進入を防ぐために恋瀬川の対岸にあるこの地の城主となって守っていたが、1573年に落城し、常春は25歳の短い運命を閉じた。

その大掾(平)常春(つねはる)が開いたといわれるのがこの常春寺(じょうしゅんじ)である。

入り口山門前の参道には古木の梅ノ木が並ぶ。

奥にある「カヤ」の木は樹齢は500年ほどと見られており、寺が建てられたときにはすでにあったとも考えられている。
常春がこの地を治めていたのはわずか1571年から1573年の2年間ほどの短い期間であった。
しかし、この地で滅んだ時の数々の伝説を残し、こうして菩提をともらう寺が今も立派に存在しうるというのもなかなか無いと思う。
どの程度地元に愛されたかは今では思い図ることもできないが、この寺や常春公の五輪搭などを見るとむかしがふっと昨日のようによみがえってくるから不思議である。
常春公が自害したとされる場所は、寺の前の田んぼのあぜ道をまっすぐ東に進み、少し登って常磐線の橋を超えてすぐその先を右に下った麓にある。

(三村常春(つねはる)公の五輪塔と椿の木)
昨日書いたようにこの三村小学校がある高台には府中城の大掾(だいじょう)貞国の弟の大掾常春(つねはる)が小田氏の進入を防ぐために恋瀬川の対岸にあるこの地の城主となって守っていたが、1573年に落城し、常春は25歳の短い運命を閉じた。

その大掾(平)常春(つねはる)が開いたといわれるのがこの常春寺(じょうしゅんじ)である。

入り口山門前の参道には古木の梅ノ木が並ぶ。

奥にある「カヤ」の木は樹齢は500年ほどと見られており、寺が建てられたときにはすでにあったとも考えられている。
常春がこの地を治めていたのはわずか1571年から1573年の2年間ほどの短い期間であった。
しかし、この地で滅んだ時の数々の伝説を残し、こうして菩提をともらう寺が今も立派に存在しうるというのもなかなか無いと思う。
どの程度地元に愛されたかは今では思い図ることもできないが、この寺や常春公の五輪搭などを見るとむかしがふっと昨日のようによみがえってくるから不思議である。
常春公が自害したとされる場所は、寺の前の田んぼのあぜ道をまっすぐ東に進み、少し登って常磐線の橋を超えてすぐその先を右に下った麓にある。

(三村常春(つねはる)公の五輪塔と椿の木)
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