喜八阿弥陀
前回書いた喜八経塚はこの小美玉市与沢という地で800年近く前にあったと伝わるお話である。
長島喜八という方はそのころこの地の名主かなにかをしていたのだろうか。
親鸞は鉾田の無量寿寺に何度も通っていた。
無量寿寺では難産で成仏できない妻が幽霊となって現れ困り果てていた。
そこに親鸞が訪れ、何日もかかってこの幽霊を成仏させることができたという。
この寺には幽霊図が残っている。
ここには鹿島神宮への途中立ち寄ったりもしたのだろう。
稲田から鹿島神宮に行くには板敷峠を越えて石岡(府中)を通り、高浜から船で行くのが通例だったと思うが、陸路を行くこともきっと多かったと思う。
その陸路の途中にこの与沢・倉数地区も通ることになったと思う。(石岡-小川-幡谷-与沢-倉数-鉾田-北浦・・・・)
途中の休憩などでも地元の有力者宅や支援者宅にお世話になっていると思う。
近くの幡谷城の城主は親鸞の弟子となっている。
24輩の一人である「幡谷の唯信」だ。
水戸の歴史館近くにある「信願寺」がその唯信が建てた寺と言われていますが、この寺も元はこちらの幡谷にあった寺だそうです。
長島喜八さんの妻がお産でなくなった。そして幽霊となって現れ喜八さんが夜も眠れずにいた。
それを親鸞聖人が小石にお経を書いて墓近くに埋めた。
それ以来幽霊もでなくなった。
喜八さんはその後阿弥陀堂を建て、親鸞から託された(?)3幅の絵を大切に保管してきた。

通り側には何も書かれたものはないが、裏に回ってみると奥に立派な阿弥陀堂が見えた。

親鸞の書いたとされる3幅の絵は県の指定文化財です。
年に3回一般開放されているようです。(1月と8月?)

隣は現在も長島家が住んでおられる一般のお宅です。
その敷地にこの立派なお堂がどっしりと構えています。



長島喜八という方はそのころこの地の名主かなにかをしていたのだろうか。
親鸞は鉾田の無量寿寺に何度も通っていた。
無量寿寺では難産で成仏できない妻が幽霊となって現れ困り果てていた。
そこに親鸞が訪れ、何日もかかってこの幽霊を成仏させることができたという。
この寺には幽霊図が残っている。
ここには鹿島神宮への途中立ち寄ったりもしたのだろう。
稲田から鹿島神宮に行くには板敷峠を越えて石岡(府中)を通り、高浜から船で行くのが通例だったと思うが、陸路を行くこともきっと多かったと思う。
その陸路の途中にこの与沢・倉数地区も通ることになったと思う。(石岡-小川-幡谷-与沢-倉数-鉾田-北浦・・・・)
途中の休憩などでも地元の有力者宅や支援者宅にお世話になっていると思う。
近くの幡谷城の城主は親鸞の弟子となっている。
24輩の一人である「幡谷の唯信」だ。
水戸の歴史館近くにある「信願寺」がその唯信が建てた寺と言われていますが、この寺も元はこちらの幡谷にあった寺だそうです。
長島喜八さんの妻がお産でなくなった。そして幽霊となって現れ喜八さんが夜も眠れずにいた。
それを親鸞聖人が小石にお経を書いて墓近くに埋めた。
それ以来幽霊もでなくなった。
喜八さんはその後阿弥陀堂を建て、親鸞から託された(?)3幅の絵を大切に保管してきた。

通り側には何も書かれたものはないが、裏に回ってみると奥に立派な阿弥陀堂が見えた。

親鸞の書いたとされる3幅の絵は県の指定文化財です。
年に3回一般開放されているようです。(1月と8月?)

隣は現在も長島家が住んでおられる一般のお宅です。
その敷地にこの立派なお堂がどっしりと構えています。



コメント