潮宮神社(いたみやじんじゃ)
昨日の与沢にある喜八阿弥陀から少し鉾田寄りの倉数に「潮宮神社」(いたみやじんじゃ)がある。
1週間ほど前に立ち寄ろうとしたが道を間違えて1本先を曲がってしまった。
戻るには道が狭くて後ろから来る車に追い立てられてそのまま奥へ進んで戻るのをあきらめていた。
今度は地図を見て調べてきた。
ここにももう5年前くらいに2度ほど訪れているのだが神社への脇路も少し広がって神社まで簡単に行くことができた。
前はもっと狭苦しい感じだったのだが・・・・・。

神社にやってきて驚いた。
全く違う神社になっているような感じだ。

参道横に別な道が作られていて、長年人が歩いて参道が沈み、参道横の古木が傾き、根がむき出しになりうっそうとした道は今は見る影もない。

沈み込んでいた参道には土が盛られ、養生が施され、かなりの古木が伐採?されたようだ。

この神社は鹿島にあった潮宮(いたみや)がここに移されたという。
水戸光圀が鹿島にあった潮宮(いたみや)の話を聞いて、潮を「いた」と読むことから「板来」の地名を「潮来」に改めさせたという。
その潮宮のこと。
この倉数の潮宮神社の祭神は高倉下命(たかくらじのみこと)で、創建は古く992年に鹿島神宮の潮宮がこの地に移されたと言われているのだ。

昔は鹿島灘沿いにたくさんの塩田があった。
この塩田の塩を常陸国国府(石岡)へ運んだ時に、ちょうど中間地点のためここに中継所が作られたらしい。
そして多くの参拝者が訪れたのだろう。
神社の参道は多くの人が通った証拠として深く沈んで参道わきの木の根がむき出しとなり傾いた多くの木が参道に覆いかぶさるように迫っていたのだが・・・・・
今は旧参道脇に別にとおる道ができ、すっかり明るくなってしまった。

少しは昔の面影もあるが・・・・

これらの古木の根が昔を語ってくれているが・・・・

常陸国にもこの塩の道があった。
その歴史が消えてほしくはない。


1週間ほど前に立ち寄ろうとしたが道を間違えて1本先を曲がってしまった。
戻るには道が狭くて後ろから来る車に追い立てられてそのまま奥へ進んで戻るのをあきらめていた。
今度は地図を見て調べてきた。
ここにももう5年前くらいに2度ほど訪れているのだが神社への脇路も少し広がって神社まで簡単に行くことができた。
前はもっと狭苦しい感じだったのだが・・・・・。

神社にやってきて驚いた。
全く違う神社になっているような感じだ。

参道横に別な道が作られていて、長年人が歩いて参道が沈み、参道横の古木が傾き、根がむき出しになりうっそうとした道は今は見る影もない。

沈み込んでいた参道には土が盛られ、養生が施され、かなりの古木が伐採?されたようだ。

この神社は鹿島にあった潮宮(いたみや)がここに移されたという。
水戸光圀が鹿島にあった潮宮(いたみや)の話を聞いて、潮を「いた」と読むことから「板来」の地名を「潮来」に改めさせたという。
その潮宮のこと。
この倉数の潮宮神社の祭神は高倉下命(たかくらじのみこと)で、創建は古く992年に鹿島神宮の潮宮がこの地に移されたと言われているのだ。

昔は鹿島灘沿いにたくさんの塩田があった。
この塩田の塩を常陸国国府(石岡)へ運んだ時に、ちょうど中間地点のためここに中継所が作られたらしい。
そして多くの参拝者が訪れたのだろう。
神社の参道は多くの人が通った証拠として深く沈んで参道わきの木の根がむき出しとなり傾いた多くの木が参道に覆いかぶさるように迫っていたのだが・・・・・
今は旧参道脇に別にとおる道ができ、すっかり明るくなってしまった。

少しは昔の面影もあるが・・・・

これらの古木の根が昔を語ってくれているが・・・・

常陸国にもこの塩の道があった。
その歴史が消えてほしくはない。


コメントうれしく拝見しました。
こんな神社にもその歴史を見ていくと昔の反映や、人々の生活の痕跡が残されていたりします。
それが便利・きれいなどといって姿を変えていくのに少しさびしさをおぼえます。
せめて昔あったことなどを何かの形で残して欲しいと思っています。
この神社も昔と少し姿を変えていますが、きれいに下草を整備し、落ち葉や枯れ木を掃いて燃やし、神社を守っていました。
支えている人はいるのですが、このような塩の道などの話がここには何も書かれたものはありません。
一言あると想像が膨らみます。
鹿島灘の「七釜」、子生(こなじ)の浜から運ばれた国分寺の鐘、また空を飛んで菖蒲沢に降り立った薬師さん・・・・皆繋がっているように思います。
よろしくお願いします
また時々こちらからもブログ拝見させていただきます。
地元の史跡等、詳しいリポートの数々、楽しみに時々お邪魔させて頂いておりました。
今回は潮来の名前の由来、潮宮の歴史、教えて頂きありがとうございます。
下津に向かう道に潮宮の祠があり、私はそこを「潮来の名前の由来」と教えて頂いていたのですが、移築された、しかもこんなにも立派なお社があったとは思いませんでした。
「塩の道」の中継地なのですね。
その昔は霞ヶ浦も内海で、石岡近くからも塩はとれたのだと思いますが、鹿島からの塩、というのが意味あるものだったのかもしれませんね。奈良・平安期のものでしたら、またそれも違いましょうか。
歴史は色々と不思議で面白いです。
今後ともよろしくお願い致します。
この潮宮についてはいくつか説もありそうですが、今は忘れられてしまったようです。
「潮宮の祠」は今もあるのですか?
昔あったというような表現が多かったので探してはいませんでした。
今度探してみます。
石岡の浜は恋瀬川の河口ですので塩が採れたという話は聞きません。
あまり採れなかったのでしょうね。
鹿島灘には塩釜がたくさんあって結構古いですね。
御伽草子の文正草子などは平安時代ですね。
いろいろなつながりを調べていくのも楽しい気がします。
最近は少しブログペースも落ちていますがこれからもよろしくお願いします。
"石岡の浜は恋瀬川の河口"なのですね。地理は苦手なのですが、その辺も見ないといけませんね。
潮宮は、下津入口交差点から入ると踏み切り手前左側にあります。「祠」と書きましたがもう少し大きな感じ。説明看板も設置されて目立つのですぐ見つかると思います。ただ、場所は私の記憶と違っていて、ちょっと不思議に思っています。記憶違いかな・・。
説明看板の写真を撮って後でゆっくり読もうと思ったらボケボケで、まだ読めていません
そこに何と書かれているか気になりますね。
> 潮宮は、下津入口交差点から入ると踏み切り手前左側にあります。「祠」と書きましたがもう少し大きな感じ。
連絡ありがとうございます。今度行ってみたいと思います。
これからもよろしくお願いします。
なお、霞ケ浦沿岸の古代の塩つくりとしては浮島にある広畑貝塚が有名ですね。
製塩土器が出土したこのあたりでは一番古い場所(縄文後期)だと思われます。
古代の塩つくりについては分布図を見た事があり、霞ヶ浦の奥の方にもあって感心した事がありました。
ただ、ざっくりした記憶です。もう1度見つけて勉強したいと思います。
「御伽草子の文正草子」「浮島にある広畑貝塚」と、詳しい情報をありがとうございます。
こちらこそ、今後ともよろしくお願い致します。