喜八阿弥陀の続き
潮宮神社記事の前に書いた与沢の喜八阿弥陀堂の記事の続きです。
ここは地図には記載があるのですが、現地の通りにも何の案内もありません。
入口も通りから1本入った裏通りからしかいけません。
一般御お宅なので仕方はありませんが、県指定の絵が3点あります。

でも素敵な場所でした。
手前が喜八阿弥陀堂。
奥がこの家(長島家)のお宅です。

茨城県有形文化財に指定されている親鸞が書いたとされる3幅の絵があります。
・絹本著色 阿弥陀如来画像
・絹本著色 善導大師画像
・絹本著色 聖徳太子勝鬘経御講讃図
県の文化財の説明を見てみました。
「中央に光芒を放ち、来迎印(らいごういん)を結んだ阿弥陀如来の独尊立像を配しています。
おそらく浄土真宗において本尊としてまつられた方便法身尊影と思われます。48本の光芒を放ち、これを光背とするのが特徴ですが本図はこの間に12の化仏(けぶつ)を配しています。 」
「善導大師は中国の浄土教五祖の一人です。各地に名僧を訪ね、念仏を唱えるたびに口から光を放ったと伝えられています。
大師が右半身を見せ、合掌しながら念仏を唱える姿を描いていますが,口から仏が出る様は、京都知恩院本に見られます。
室町時代の作です。」
「聖徳大師は35歳で、天皇の命により勝鬘経を講説しました。
この場面はすべての太子絵伝に取り上げられていますが、太子が赤袍(せきほう)に袈裟を掛け冕冠(べんかん)をつけ、手に麈尾(しゅび)を取り、机に倚座(きざ)し、下方に僧侶の聴聞衆を配する通例の形です。室町時代の作です。」
ここにはそれぞれ室町時代の作とされていますが、親鸞聖人の直筆という文言は入っていません。
名かな直筆の書も絵もほとんど残していないといわれる親鸞上人ですので真筆のほどはわからないでしょう。

大きな古木と境内。

親鸞上人が腰かけたとされる石

大きな椿の木と梅の花

この阿弥陀堂の入り口近くに置かれた古い石碑
何と書かれているのでしょうか?
「旗師聖人・・・?」
旗師というのは今でいえば美術商のことのようですが・・・

そしてこの階段を上ったところに阿弥陀堂があります。
どうやら親鸞聖人との昔の話がこのお宅には残されているように思います。
訪れた時に息子さんが出かけるところでした。
お話が聞けなかったは何か少し残念な気がしました。
ここは地図には記載があるのですが、現地の通りにも何の案内もありません。
入口も通りから1本入った裏通りからしかいけません。
一般御お宅なので仕方はありませんが、県指定の絵が3点あります。

でも素敵な場所でした。
手前が喜八阿弥陀堂。
奥がこの家(長島家)のお宅です。

茨城県有形文化財に指定されている親鸞が書いたとされる3幅の絵があります。
・絹本著色 阿弥陀如来画像
・絹本著色 善導大師画像
・絹本著色 聖徳太子勝鬘経御講讃図
県の文化財の説明を見てみました。
「中央に光芒を放ち、来迎印(らいごういん)を結んだ阿弥陀如来の独尊立像を配しています。
おそらく浄土真宗において本尊としてまつられた方便法身尊影と思われます。48本の光芒を放ち、これを光背とするのが特徴ですが本図はこの間に12の化仏(けぶつ)を配しています。 」
「善導大師は中国の浄土教五祖の一人です。各地に名僧を訪ね、念仏を唱えるたびに口から光を放ったと伝えられています。
大師が右半身を見せ、合掌しながら念仏を唱える姿を描いていますが,口から仏が出る様は、京都知恩院本に見られます。
室町時代の作です。」
「聖徳大師は35歳で、天皇の命により勝鬘経を講説しました。
この場面はすべての太子絵伝に取り上げられていますが、太子が赤袍(せきほう)に袈裟を掛け冕冠(べんかん)をつけ、手に麈尾(しゅび)を取り、机に倚座(きざ)し、下方に僧侶の聴聞衆を配する通例の形です。室町時代の作です。」
ここにはそれぞれ室町時代の作とされていますが、親鸞聖人の直筆という文言は入っていません。
名かな直筆の書も絵もほとんど残していないといわれる親鸞上人ですので真筆のほどはわからないでしょう。

大きな古木と境内。

親鸞上人が腰かけたとされる石

大きな椿の木と梅の花

この阿弥陀堂の入り口近くに置かれた古い石碑
何と書かれているのでしょうか?
「旗師聖人・・・?」
旗師というのは今でいえば美術商のことのようですが・・・

そしてこの階段を上ったところに阿弥陀堂があります。
どうやら親鸞聖人との昔の話がこのお宅には残されているように思います。
訪れた時に息子さんが出かけるところでした。
お話が聞けなかったは何か少し残念な気がしました。
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