八郷地区
今石岡地方の記事をまとめていて5巻目「八郷地区の里山と歴史散歩」をまとめている。
その冒頭の書き出しをここに載せます。(なかなか難しいですね)
今日である程度の形は完成です。後は細かい見直しのみ。
3月中の仕上げはできそうです。でも印刷はまだ先かな?
1 はじめに
八郷とは7つの村と1つの町が昭和30年合併して「八郷町」となり、平成の大合併(2005年)で石岡市と合併し「八郷町」の地名は消えましたが、長らく愛された「八郷」の名前はあちこちで使われています。
ここは筑波山~加波山~吾国山(わがくにさん)~難台山(なんだいさん)~鐘転山(かねころがしやま)の山並みにより西から北側を囲まれ、東側は霞ケ浦に続く平野部に続く温暖な気候の地域です。
東京からも70kmほどしか離れていないのに驚くほど豊かな自然とホタルも舞う里山が広がっています。先日NHKテレビで紹介されたテーマは3つでした。
1)親子3代にわたり八郷地区で農業をしている家庭。
昔はタバコ栽培をしていたが、野菜栽培に切り替え親子三代で一緒に暮らしている。
(タバコは、昔はこの地区の主要な産業でした)
2)東京から脱サラして来た30代の親子。
2年間の農業指導を受けてこの地に自分の土地を耕し、野菜作りが始まった家族。
サラリーマン時代は子供と過ごす時間もほとんどなかったのが、収入は半分になったけれど、生き生きとして暮らしている姿であった。
奥さまの「うちの子供たちはここにきてからこの人(ご主人)のことを父親だと知ったみたいです。
それまでは時々顔を見かける人だった」の言葉は強烈でした。
3)八郷地区の茅葺屋根を葺く職人さんに若い職人が加わり、必死に技を覚えている。
この地区に伝わる茅葺屋根は「筑波流」という独特の葺き方をしています。

この地区は日本の里山100選に選ばれており、都会からこの地に移り住む人も多い。
また果樹団地も多く、梨、りんご、柿、イチゴ、ブルーベリーなどのほか、有機栽培の野菜を始め、豚・シャモ(軍鶏)も有名です。

都会がいやになったら是非来てください。
癒されること請け合いです。

右手の山が筑波山~足尾山~加波山の連なる山並みです。
○ 府中と山根
昔からこの辺りにおられる方は「府中と山根」ということでわかるようですが、今はあまりこの呼び名は使われません。
「府中」は旧石岡市域で、「山根」は旧八郷地域をさします。
「府中」は常陸府中で石岡になる前に呼ばれていた名前で全国にありました。
その中で茨城(常陸府中=常府)と静岡(駿河府中=駿府)は府中の名前は変わらざるを得なかったようです。
しかし武蔵府中は東京都府中市となり、甲斐府中は甲府市、周防府中は防府市、備後府中は広島県府中市などと名前が残ったところも数多くありますが、多くはその名前が消えていきました。
常陸府中も「石岡」(由来はよくわからない)となりました。
石岡の市街から旧八郷地区(柿岡)に入ると筑波山から加波山の山並みが目に飛び込んできます。
また石岡の台地から見ると比較的低地となっていて、山の麓に霧がかかっていることも良くあります。
この山並みが見える光景はやはり良い。
下の写真は下林地区を過ぎて上林地区・柿岡の街に入る手前です。

この「林」と一見なにもなさそうな地名も実はたいそう古い地名のようです。
平安時代に書かれた和名類聚抄にも常陸国茨城郡の中に「拝師郷(はやしのごう)」という地名が出てきます。
祈祷師のような人が暮らしていたのでしょうか。
この地域は恐らく現在の柿岡地区なども含んで呼ばれていたと思われます。
出雲風土記にもこの名前が出てきますので出雲系の民族であったのではないかと思われます。
江戸時代は山の麓に広がっているので山根地区と呼ばれ、五十三か村がありました。
その中から染谷村と村上村が石岡に編入されました。
また、残りの村々も合併していき、柿岡町・小幡村・葦穂村・恋瀬村・瓦会村・園部村・林村・小桜村の1町7村残りましたが、昭和30年にこれらが合併して八郷町と命名されました。
都会からこの地区に移り住む人も多く、皆この八郷(やさと)という響きが好きな方が多くいるようです。
私もこの八郷という名前は好きです。
八郷地区は結構広いです。
旧石岡地区より面積は大分大きいです。(下の地図を参照)

その冒頭の書き出しをここに載せます。(なかなか難しいですね)
今日である程度の形は完成です。後は細かい見直しのみ。
3月中の仕上げはできそうです。でも印刷はまだ先かな?
1 はじめに
八郷とは7つの村と1つの町が昭和30年合併して「八郷町」となり、平成の大合併(2005年)で石岡市と合併し「八郷町」の地名は消えましたが、長らく愛された「八郷」の名前はあちこちで使われています。
ここは筑波山~加波山~吾国山(わがくにさん)~難台山(なんだいさん)~鐘転山(かねころがしやま)の山並みにより西から北側を囲まれ、東側は霞ケ浦に続く平野部に続く温暖な気候の地域です。
東京からも70kmほどしか離れていないのに驚くほど豊かな自然とホタルも舞う里山が広がっています。先日NHKテレビで紹介されたテーマは3つでした。
1)親子3代にわたり八郷地区で農業をしている家庭。
昔はタバコ栽培をしていたが、野菜栽培に切り替え親子三代で一緒に暮らしている。
(タバコは、昔はこの地区の主要な産業でした)
2)東京から脱サラして来た30代の親子。
2年間の農業指導を受けてこの地に自分の土地を耕し、野菜作りが始まった家族。
サラリーマン時代は子供と過ごす時間もほとんどなかったのが、収入は半分になったけれど、生き生きとして暮らしている姿であった。
奥さまの「うちの子供たちはここにきてからこの人(ご主人)のことを父親だと知ったみたいです。
それまでは時々顔を見かける人だった」の言葉は強烈でした。
3)八郷地区の茅葺屋根を葺く職人さんに若い職人が加わり、必死に技を覚えている。
この地区に伝わる茅葺屋根は「筑波流」という独特の葺き方をしています。

この地区は日本の里山100選に選ばれており、都会からこの地に移り住む人も多い。
また果樹団地も多く、梨、りんご、柿、イチゴ、ブルーベリーなどのほか、有機栽培の野菜を始め、豚・シャモ(軍鶏)も有名です。

都会がいやになったら是非来てください。
癒されること請け合いです。

右手の山が筑波山~足尾山~加波山の連なる山並みです。
○ 府中と山根
昔からこの辺りにおられる方は「府中と山根」ということでわかるようですが、今はあまりこの呼び名は使われません。
「府中」は旧石岡市域で、「山根」は旧八郷地域をさします。
「府中」は常陸府中で石岡になる前に呼ばれていた名前で全国にありました。
その中で茨城(常陸府中=常府)と静岡(駿河府中=駿府)は府中の名前は変わらざるを得なかったようです。
しかし武蔵府中は東京都府中市となり、甲斐府中は甲府市、周防府中は防府市、備後府中は広島県府中市などと名前が残ったところも数多くありますが、多くはその名前が消えていきました。
常陸府中も「石岡」(由来はよくわからない)となりました。
石岡の市街から旧八郷地区(柿岡)に入ると筑波山から加波山の山並みが目に飛び込んできます。
また石岡の台地から見ると比較的低地となっていて、山の麓に霧がかかっていることも良くあります。
この山並みが見える光景はやはり良い。
下の写真は下林地区を過ぎて上林地区・柿岡の街に入る手前です。

この「林」と一見なにもなさそうな地名も実はたいそう古い地名のようです。
平安時代に書かれた和名類聚抄にも常陸国茨城郡の中に「拝師郷(はやしのごう)」という地名が出てきます。
祈祷師のような人が暮らしていたのでしょうか。
この地域は恐らく現在の柿岡地区なども含んで呼ばれていたと思われます。
出雲風土記にもこの名前が出てきますので出雲系の民族であったのではないかと思われます。
江戸時代は山の麓に広がっているので山根地区と呼ばれ、五十三か村がありました。
その中から染谷村と村上村が石岡に編入されました。
また、残りの村々も合併していき、柿岡町・小幡村・葦穂村・恋瀬村・瓦会村・園部村・林村・小桜村の1町7村残りましたが、昭和30年にこれらが合併して八郷町と命名されました。
都会からこの地区に移り住む人も多く、皆この八郷(やさと)という響きが好きな方が多くいるようです。
私もこの八郷という名前は好きです。
八郷地区は結構広いです。
旧石岡地区より面積は大分大きいです。(下の地図を参照)

先日も、両総用水の件で調べると、水利事業の公団のhpにPDFデータがあり、非常によく分かりました。
紙でしかまだ受け付けない人もまだ多いのですよ。
こうしてブログやFBでまだ情報が取れる方はどちらでもよいし、Webの方がきれいでいつでも検索できてよいに決まっているのですが、最近本にし始めてこれも良いかなと思っています。
最初に市のHPのあまりもの貧弱さにあきれて自らHPを作りました。
これも2~3年後には内容も陳腐になって雨後の竹の子のように情報があふれてくると思ったのですが
結果は予想の2~3割程度。
まったく情報音痴な場所にはこの気持ちは届かないようですよ。
市などでは公共ですから予算をかけてやればいいのですが、これも人材に依るように思います。
まあ頭を出そうとするとたたく人がまだいるようです。困りものです。
地誌のようですが記事もあまり「地元をよいしょ」するつもりもないので面白く思わないのかもしれませんね。
まあ自作本ですがどの程度反響があるか? なにしろ地元のことを書くのって変に気を遣います。