山倉大神(3)
この山倉大神では12月7日に「山倉の鮭祭り」という行事が行われているという。(千葉県指定文化財)
なかなか面白い。
♪♪ 陸の松島 黄金の秋が すぎてもうすぐ サケ祭り
今年しゃ夫婦で 山倉さまに 明日の倖せ 祈りたい
(山田音頭)
(注) 山田:合併して香取市になる前はこの地は山田町でした。
現地の説明看板より:
この例祭は、「鮭祭り」とも呼ばれ、毎年旧暦霜月初卯の創建の日であったが、明治の末に今の12月7日に改められた。
この日は、神社庁から献幣使の参向があり、例祭式・出御祭・神輿渡御・山車巡行等が厳かに執り行われる。
鮭祭りは、秋風と共に産卵のため栗山川等を遡行し、「竜宮からの使者」として奉納された鮭を、白川流の包丁捌きで奉製して12月7日当日参詣者に頒布し、秘伝の黒焼き鮭は社務所に常備され、共に病気や災いをサケる護符又は風邪薬として名高く、房総の魅力500選にも挙げられている。
今は栗山川はさほど大きな川ではないが、数m海面を上昇してみるとかなり広い穏やかな川であったのが見て取れる。
この川の流域でたくさんの古代木舟が見つかっており、縄文人たちもたくさん暮らしていたことが想像できる。
多古町に展示していた舟(前に書いた記事)は ⇒ こちら
また旧栗源町(くりもとまち)には高句麗などからの渡来人がたくさん住んでいたという話もある。

(栗山川 山倉様の 上り鮭)
秋に産卵のために川をさかのぼってくる鮭がどのように昔は扱われていたのかかなり興味がある。
常陸風土記では日立の助川の地名についての記述がある。
「ここから東北へ三十里のところに助川の駅がある。以前は遇鹿(あひか)といったのは、むかし倭建の天皇が、ここに出かけられたとき、皇后様と行き逢ふことができたので、その名がついた。国宰(くにのみこともち)久米大夫のころに、鮭を採ったので、助川といふやうになった。(俗に鮭の祖を「すけ」といふ)」
さて、この「鮭の祖」=「すけ」というのだが、この言葉はアイヌ語に通じるという。
鮭の祖というのは鮭の中でも特に大きな産卵の親鮭を指しているようだ。
東北地方に伝わる「鮭のオオスケ(大助)」の民話とどうしても重なって聞こえてくる。(民話は記事の最後に参考にのせます)
何とも面白いものだ。

神楽の白川流(家)というのは良くわからないが上の説明を読んでください。

神楽殿


額殿

参考:鮭の大助(オオスケ) Wikipediaより
その昔、信濃川近くにある大長者がいた。ある年の霜月(11月)15日。いつも川で漁をするはずの漁師たちが揃って仕事を休んでいることを不思議に思ったが、その日は鮭の大介・小介がのぼってくる日と気づいた。
日が経つにつれ、長者はたかが魚ごときになぜ漁を休まむのかと腹が立ってきた。そこで翌年のその日が近づいた頃、漁師たちに漁を行って大介・小介を捕えるよう告げた。漁師たちはみな川の王の祟りを恐れたが、長者が権力にものをいわせて脅すので、渋々承知した。
そして霜月15日。長者は大介・小介が捕まるところを見てやろうと上機嫌で川に出た。漁師たちが網を放ったが、なぜか大介・小介どころか、小魚すら網にかかることはない。長者は漁師たちにハッパをかけるが、魚は1匹も捕まらない。
やがて漁師たちは、長者より川の王の祟りを恐れて皆、引き上げてしまった。川辺には長者1人が残され、既に時は真夜中になってしまった。
気がつくと、目の前に銀髪を輝かせた1人の老婆がいて、長者に言った。
「今日はご苦労であった」
それを見た長者は次第に気が遠くなっていった。何かを言い返そうとしたが、既に言葉にならない。老婆が川へと歩いていくと、川辺に激しい水音がした。そして声が響いた。
「鮭の大介・小介、今のぼる」
大介・小介を先頭にして、月光の照らす中を鮭の群れが川をさかのぼって行った。
長者はすでに息絶えていた。
なかなか面白い。
♪♪ 陸の松島 黄金の秋が すぎてもうすぐ サケ祭り
今年しゃ夫婦で 山倉さまに 明日の倖せ 祈りたい
(山田音頭)
(注) 山田:合併して香取市になる前はこの地は山田町でした。
現地の説明看板より:
この例祭は、「鮭祭り」とも呼ばれ、毎年旧暦霜月初卯の創建の日であったが、明治の末に今の12月7日に改められた。
この日は、神社庁から献幣使の参向があり、例祭式・出御祭・神輿渡御・山車巡行等が厳かに執り行われる。
鮭祭りは、秋風と共に産卵のため栗山川等を遡行し、「竜宮からの使者」として奉納された鮭を、白川流の包丁捌きで奉製して12月7日当日参詣者に頒布し、秘伝の黒焼き鮭は社務所に常備され、共に病気や災いをサケる護符又は風邪薬として名高く、房総の魅力500選にも挙げられている。
今は栗山川はさほど大きな川ではないが、数m海面を上昇してみるとかなり広い穏やかな川であったのが見て取れる。
この川の流域でたくさんの古代木舟が見つかっており、縄文人たちもたくさん暮らしていたことが想像できる。
多古町に展示していた舟(前に書いた記事)は ⇒ こちら
また旧栗源町(くりもとまち)には高句麗などからの渡来人がたくさん住んでいたという話もある。

(栗山川 山倉様の 上り鮭)
秋に産卵のために川をさかのぼってくる鮭がどのように昔は扱われていたのかかなり興味がある。
常陸風土記では日立の助川の地名についての記述がある。
「ここから東北へ三十里のところに助川の駅がある。以前は遇鹿(あひか)といったのは、むかし倭建の天皇が、ここに出かけられたとき、皇后様と行き逢ふことができたので、その名がついた。国宰(くにのみこともち)久米大夫のころに、鮭を採ったので、助川といふやうになった。(俗に鮭の祖を「すけ」といふ)」
さて、この「鮭の祖」=「すけ」というのだが、この言葉はアイヌ語に通じるという。
鮭の祖というのは鮭の中でも特に大きな産卵の親鮭を指しているようだ。
東北地方に伝わる「鮭のオオスケ(大助)」の民話とどうしても重なって聞こえてくる。(民話は記事の最後に参考にのせます)
何とも面白いものだ。

神楽の白川流(家)というのは良くわからないが上の説明を読んでください。

神楽殿


額殿

参考:鮭の大助(オオスケ) Wikipediaより
その昔、信濃川近くにある大長者がいた。ある年の霜月(11月)15日。いつも川で漁をするはずの漁師たちが揃って仕事を休んでいることを不思議に思ったが、その日は鮭の大介・小介がのぼってくる日と気づいた。
日が経つにつれ、長者はたかが魚ごときになぜ漁を休まむのかと腹が立ってきた。そこで翌年のその日が近づいた頃、漁師たちに漁を行って大介・小介を捕えるよう告げた。漁師たちはみな川の王の祟りを恐れたが、長者が権力にものをいわせて脅すので、渋々承知した。
そして霜月15日。長者は大介・小介が捕まるところを見てやろうと上機嫌で川に出た。漁師たちが網を放ったが、なぜか大介・小介どころか、小魚すら網にかかることはない。長者は漁師たちにハッパをかけるが、魚は1匹も捕まらない。
やがて漁師たちは、長者より川の王の祟りを恐れて皆、引き上げてしまった。川辺には長者1人が残され、既に時は真夜中になってしまった。
気がつくと、目の前に銀髪を輝かせた1人の老婆がいて、長者に言った。
「今日はご苦労であった」
それを見た長者は次第に気が遠くなっていった。何かを言い返そうとしたが、既に言葉にならない。老婆が川へと歩いていくと、川辺に激しい水音がした。そして声が響いた。
「鮭の大介・小介、今のぼる」
大介・小介を先頭にして、月光の照らす中を鮭の群れが川をさかのぼって行った。
長者はすでに息絶えていた。
コメント