鹿島神社(城里町高久)と悪路王
このブログも毎日更新していたのをやめて、比較的自由に書こうとしていたら、徐々に更新間隔が長くなってしまった。
1日おきくらいには書きたいと昨日も途中まで記事を書いていたが、書いていた記事が途中で消えてしまい書く気をなくしてしまいました。
それでも記事にアクセスしていただいている方が多くおられるので、記事を書き直してUPします。
今日で世の中はゴールデンウィークが終わるようで、また明日から街中もお年寄りばかりが目立つ静かな日々に戻ることでしょう。
今日は城里町高久にある鹿島神社を紹介します。
地図にも神社マークはあるものの、神社名も記されていない地図も多いあまり目立つ神社でもありません。
石岡と城里町石塚を結ぶ通称「石塚街道」(県道52号線)は石岡の鹿の子から水戸の台渡里を結んでいたと思われる古代官道(五万掘古道?)の近くを通る道でもある。
この道は石塚で終点だがそのまま進むと那珂川に沿った低地へ急激に下り、旧桂村の粟地方を通り、御前山方面に行く。
さて鹿島神社のある場所は、この崖下(圷:あくつ)へ降りてから左(西)へ行っても良いが、城里町役場手前から左に曲がる県道246号(錫高野石塚線)を進むとなだらかに下って、この神社の前に出る。

鹿島神社の本殿彫刻は目を見張るものがある。
もう5年近く来ていなかったせいか、前に来たときは色が鮮やかであったが、今はだいぶ薄れてしまった。
それでもこの中国式の彫刻はひときわ目立つ。

現地看板「 鹿島神社の創建は光仁天皇の御代、天応元年社殿を造り休塚明神と称す。本殿彫刻は、廃寺となった吉祥院のものといわれ、中国の故事が巧みに表現されており、その精巧さは近隣では極めて珍しい。作者は不明である。昭和50年5月日光の名工によって塗りかえられた」
この吉祥院がどこにあったものかよく知らない。


鹿島神社が注目されるのはここに「悪路王」の首の彫刻が置かれていることである。
蝦夷の首領であったアテルイが悪路王と呼ばれていて同一人物と言われているのだが、この悪路王の彫刻は鹿島神宮(常陸国一宮)とこの高久鹿島神社の2か所である。

鹿島神宮は宝物館に展示されており、首を酒に漬けこんで運んだとされる首桶と一緒に展示されている。
宝物館の説明には「坂上田村麻呂将軍が奥州において征伐した悪路王(阿弖流為‐アテルイ)の首を寛文年間・口伝により木製で復元奉納したもの」とある。

鹿島神宮の宝物館に比べればこちらの扱いはこの説明紙切れだけである。
また看板には「当鹿島神社の社宝として伝わるものである。延暦年間(782~806年)坂上田村麻呂が北征のおり、陸奥達谷窟でアテルイ(悪路王)を誅し、凱旋の途中この地を過ぎ携えてきた首級を納めた。最初はミイラであったがこれを模型化したものといわれる。高さが50cmほどで形相物凄く優れた彫刻である。」と書かれている。
(残念ながら彫刻の現物はまだ見ていない)

まあ歴史的には、現在は坂上田村麻呂が蝦夷を打ち破った時に投降した蝦夷の首領の「アテルイ」と「モレ」という2人の人物を都に連れて帰ったといわれている。
そして京都でこの2人は処刑され、清水寺にその碑が立てられている。
東北で打ち取られたこの首は誰のものだったのか?
悪路王とはアテルイだけではなくほかにもいたのか?
前に私がHPで京都で処刑されたアテルイの首は将門と同じように空を飛んで東北目指したがこの地に力尽きて落ちたのかもしれないと書いたが、解釈は好きにやっても良いだろう。
このような話が伝わることは、やはりこの道が昔の蝦夷征伐に通ったルートに近いのだろうという気がしている。

1日おきくらいには書きたいと昨日も途中まで記事を書いていたが、書いていた記事が途中で消えてしまい書く気をなくしてしまいました。
それでも記事にアクセスしていただいている方が多くおられるので、記事を書き直してUPします。
今日で世の中はゴールデンウィークが終わるようで、また明日から街中もお年寄りばかりが目立つ静かな日々に戻ることでしょう。
今日は城里町高久にある鹿島神社を紹介します。
地図にも神社マークはあるものの、神社名も記されていない地図も多いあまり目立つ神社でもありません。
石岡と城里町石塚を結ぶ通称「石塚街道」(県道52号線)は石岡の鹿の子から水戸の台渡里を結んでいたと思われる古代官道(五万掘古道?)の近くを通る道でもある。
この道は石塚で終点だがそのまま進むと那珂川に沿った低地へ急激に下り、旧桂村の粟地方を通り、御前山方面に行く。
さて鹿島神社のある場所は、この崖下(圷:あくつ)へ降りてから左(西)へ行っても良いが、城里町役場手前から左に曲がる県道246号(錫高野石塚線)を進むとなだらかに下って、この神社の前に出る。

鹿島神社の本殿彫刻は目を見張るものがある。
もう5年近く来ていなかったせいか、前に来たときは色が鮮やかであったが、今はだいぶ薄れてしまった。
それでもこの中国式の彫刻はひときわ目立つ。

現地看板「 鹿島神社の創建は光仁天皇の御代、天応元年社殿を造り休塚明神と称す。本殿彫刻は、廃寺となった吉祥院のものといわれ、中国の故事が巧みに表現されており、その精巧さは近隣では極めて珍しい。作者は不明である。昭和50年5月日光の名工によって塗りかえられた」
この吉祥院がどこにあったものかよく知らない。


鹿島神社が注目されるのはここに「悪路王」の首の彫刻が置かれていることである。
蝦夷の首領であったアテルイが悪路王と呼ばれていて同一人物と言われているのだが、この悪路王の彫刻は鹿島神宮(常陸国一宮)とこの高久鹿島神社の2か所である。

鹿島神宮は宝物館に展示されており、首を酒に漬けこんで運んだとされる首桶と一緒に展示されている。
宝物館の説明には「坂上田村麻呂将軍が奥州において征伐した悪路王(阿弖流為‐アテルイ)の首を寛文年間・口伝により木製で復元奉納したもの」とある。

鹿島神宮の宝物館に比べればこちらの扱いはこの説明紙切れだけである。
また看板には「当鹿島神社の社宝として伝わるものである。延暦年間(782~806年)坂上田村麻呂が北征のおり、陸奥達谷窟でアテルイ(悪路王)を誅し、凱旋の途中この地を過ぎ携えてきた首級を納めた。最初はミイラであったがこれを模型化したものといわれる。高さが50cmほどで形相物凄く優れた彫刻である。」と書かれている。
(残念ながら彫刻の現物はまだ見ていない)

まあ歴史的には、現在は坂上田村麻呂が蝦夷を打ち破った時に投降した蝦夷の首領の「アテルイ」と「モレ」という2人の人物を都に連れて帰ったといわれている。
そして京都でこの2人は処刑され、清水寺にその碑が立てられている。
東北で打ち取られたこの首は誰のものだったのか?
悪路王とはアテルイだけではなくほかにもいたのか?
前に私がHPで京都で処刑されたアテルイの首は将門と同じように空を飛んで東北目指したがこの地に力尽きて落ちたのかもしれないと書いたが、解釈は好きにやっても良いだろう。
このような話が伝わることは、やはりこの道が昔の蝦夷征伐に通ったルートに近いのだろうという気がしている。

コメント
No title
夷大墓公阿弖流為は刈田郡南端部の東越山(阿津賀志山)に砦を築き大道を塞いだ人物です。征討軍の北上を阻止し国府域への侵掠を窺っていました。征討軍はそれを阻止するため巨大な防御を作りました。所謂阿津賀志山防塁としょうされる堀跡です。吾妻鑑は藤原泰衡が築いたと記しますが虚構です。多賀国府など存在しません。多賀城碑に虚偽書されています。神亀元年に大野東人は按察使や鎮守将軍に未だ任ぜられていません。賀美郡部内の城の碑が遠く離れた名取郡付近から出土する道理がありません。多賀国府など実在しないのです。多賀国府と関連する一連の吾妻鑑文治五年の条は虚構といえるのです。
山田さま
ご教授多謝。