平重盛ゆかりの小松寺は新緑につつまれて
平重盛の墓があるとされる城里町の小松寺を訪ねました。
ここも入口に大きなしだれ桜の木があり、数年前にも桜の時期に訪れました。

重盛は平清盛の長子であったが、父清盛よりも先に死んでしまった。
そして高野山に葬られたという。
京都六波羅の小松に屋敷があり内大臣まで登りつめたので小松内大臣と呼ばれた。
源平合戦で都落ちとなった平家が九州を目指したが、これに反対した重盛の腹心「平貞能(さだよし)」は高野山に登り、重盛の遺骨を掘り出して土は加茂川に流し、その痕跡を消して、重盛夫人を伴って関東に逃れてきた。
史実はこのあたりでよくわからなくなるが、この小松寺にはこの重盛、貞能、夫人で尼となった得律禅尼の3名の墓がある。
(益子や仙台にも別な話が伝わっており、いくつかの説が残っています)




紫の花はオオアラセイトウ(花ダイコン、ムラサキハナナ、諸葛菜)です。
何時ごろから咲きだしたのでしょうか。

石楠花の花が咲いて・・・・

建久5年(1194)に建立されたという観音堂。堂々としたきれいな建物です。


この写真の奥の階段を上ると上の山の中腹に重盛公の墓があります。
今回は前に来ているし、時間もないので上るのはやめておきました。

ここも入口に大きなしだれ桜の木があり、数年前にも桜の時期に訪れました。

重盛は平清盛の長子であったが、父清盛よりも先に死んでしまった。
そして高野山に葬られたという。
京都六波羅の小松に屋敷があり内大臣まで登りつめたので小松内大臣と呼ばれた。
源平合戦で都落ちとなった平家が九州を目指したが、これに反対した重盛の腹心「平貞能(さだよし)」は高野山に登り、重盛の遺骨を掘り出して土は加茂川に流し、その痕跡を消して、重盛夫人を伴って関東に逃れてきた。
史実はこのあたりでよくわからなくなるが、この小松寺にはこの重盛、貞能、夫人で尼となった得律禅尼の3名の墓がある。
(益子や仙台にも別な話が伝わっており、いくつかの説が残っています)




紫の花はオオアラセイトウ(花ダイコン、ムラサキハナナ、諸葛菜)です。
何時ごろから咲きだしたのでしょうか。

石楠花の花が咲いて・・・・

建久5年(1194)に建立されたという観音堂。堂々としたきれいな建物です。


この写真の奥の階段を上ると上の山の中腹に重盛公の墓があります。
今回は前に来ているし、時間もないので上るのはやめておきました。

コメント