空也がいた。
日曜日に「旅-ぶら」という企画に初参加させていただいた。
昔は旅-Cafeとして活動されていたそうだ。
それがこの企画をされているYさんが私のところに来られてFBのお友達となった。
どうもこのブログを時々読んでいてくれたようだ。
私も面白そうな企画が多いのでその報告などを読んで楽しんでいたのだが、今回かすみがうら市の旧出島地区の空也堂を取り上げた企画が私の心をつかんでしまったのだ。
もう5年ほど前にこの出島地区を30~40回にわたって出島散歩としてまとめたことがある。
この地区に興味を持たれる方は実は少ない。
私が歩き回って書いた記事もその後ほとんど見向きもされない。
明治になり鉄道が走るようになって都市部から見るこのあたりのイメージがきっと変わってしまったのだろう。
霞ケ浦にたくさんの高瀬舟が浮かんでいたとき、またそのもっと前の時代にこのあたりはきっと豊かな場所だったに違いない。
映画「米」などではまずしい地区として描かれているが、今回の旅を通じてそれは間違いだということに気が付いた。
ここに暮らす人たちはみな心も皆驚くほど優しく豊かであった。
私がこのブログを書くきっかけになったのは、石岡が常陸国国府で、古代の東海道がこのあたりも通っていたかもしれないとその痕跡を探し始めたことでもあった。
いくらそのようなことを書いても自己満足にしかならないかもしれないのだが・・・・。
それが私の脳裏には、今回の旅で美浦村から出島に渡った牛の話と宍倉にあるこの空也堂がつながってきた。
空也上人などという人は名前は聞いたことがあるが、痕跡は会津と京都だけであまり伝わっていないのでまったくと言って知識がない。
阿弥陀聖だとか念仏踊りだとか、念仏を唱えれば極楽浄土に行けるだとか・・・・話には時々聴くがほとんど実態は理解していない。
法然は室町時代から鎌倉時代にかけての思想だし、親鸞も法然を師として教えを受けていた。
さて、こ空也上人はそれより150年ほど前。将門の時代と重なる。
念仏を唱え浄土教の祖とも言われるという。
それが空也の残したものとして有名な京都六波羅蜜寺と会津の八葉寺と並んで日本三空也といわれるものがこんなひっそりとして隠されたようにここかすみがうら市宍倉にある「空也堂」であり、空也の墓もあるとも・・・。
何故?
旅-ぶらの当日いただいた資料にかなり詳しく書かれていたがやはり私には理解できなかった。
でも普段公開されることがない空也堂の空也像が今回みられるという。
もうこれだけで今回の企画に参加する価値がある。
ここには5年ほど前に一人できて、周辺を歩き回った。
「空也堂」「堂山千手観音堂(公民館)」「福蔵寺」「宍倉城跡」など。
その時にこの地に不思議な空気が流れていることを感じていた。
通り沿いにポツンとあり周りに塀もない「福蔵寺」にはたくさんの四国八十八カ所の石塔が置かれていた。
(その時の記事は ⇒ こちら)
そしてこの地区で、毎年1月17日にお寺にある「大般若経」を持って各家庭を周り、お札を配り、お礼にお米を奉納したという話を書いた(今はお米ではなく現金)。
どこかこの部落全体が信仰心が強いという気がしたのである。
さて、今回この空也堂を開けて見せていただけることになった。

これが空也像。
東日本大震災で空也上人の口からでていた阿弥陀三尊像が取れてしまったという。

この阿弥陀三尊像が口のところについていたのだという。
六波羅蜜寺の空也像は写真で見たことはあるが、南無阿弥陀仏と唱えていたということで6体の像が口から飛び出す象で知られます。
こちらは阿弥陀の三尊です。
阿弥陀経が浄土宗や浄土真宗にならずに浄土教としてここでは空也が祀られて1000年以上も続いてきたのでしょうか?

この空也像は片目をつむっているように見えます。
また上を向いたその様子は六波羅蜜寺のものと似ています。
近寄ってそのお顔を見るとなんともやさいいお顔です。

右手の杖も折れてしまったのでしょうか?
鹿の角がついていたのでしょうか?


阿弥陀三尊の絵も残されています。


また古いいわれを書いた巻物も・・・。

空也上人縁起

鹿の角も一対。
これは空也上人の杖に鹿の角をつけていたということでしょうか。
ここの地名である「宍倉(ししくら)」もかなり古い地名で新治郡宍倉邑がシシクラの名前のルーツとなり千葉県などにたくさん広がったようです。
この地に伝わる名前の由来は鹿を埋葬した塚を鹿蔵(ししくら)と言っていたものが宍倉となったのだという。
そしてこの地に小田氏の重要家臣菅谷(すがのや)氏が住み着いて浄土教を信仰したということのように思います。

宍倉城の城主だった菅谷氏は中世に一大勢力を誇った小田氏の重要家臣の一人で、この宍倉に入ったのは1451年?ころのようです。
小田氏は鎌倉幕府の御家人として力を発揮していましたが、たしか善光寺を信仰していたと思っていました。
新善光寺の小田氏にかかわる寺などがたくさんあります。
でも律宗の僧「忍性」が小田氏のもとで筑波山 宝篋山の麓に極楽寺という大きな寺を建てたといわれ、これが13世紀末頃でしょうか。
でもこの地ではこの空也が信仰されてきたのでしょう。
古代の東海道がこのあたりを通っていたとしても何の不思議もありません。
この空也堂の真南が牛渡になります。
そしてここから小舟に乗って菱木川を上り、笄崎あたりまで舟で行って、三村の方から恋瀬川を渡って国府石岡に向かっていたというルートが見えてきます。
石岡は鹿の子遺跡から水戸の台渡里までの古道も八幡太郎の伝説と重なって伝えられています。

美浦村に伝わる八幡太郎の伝説はやはり長者の屋敷に火をつけて燃やしてしまう話でした。
これはこの台渡里長者の話とそっくりです。
同じような話があちこちにあるのはどうしてなのでしょうね。
鎌倉時代の「いざ鎌倉」の昔読んだ歴史絵本が思い浮かぶのもまたどうしてなのか。
今回かすみがうら歴史博物館で、伊藤幾久造の絵の展示会が開かれていた。
これまた素晴らしかった。
昔の歴史絵本などの表紙絵などもたくさん手がけていたようだ。
懐かしかった。
しかし日本が、美人画などはこれまた素晴らしい。
こちらがもう少し評価されても良いと感じた。
また少しずつ調べていきたい。

私がまとめた本ももう少し調べて書き換えることも必要かもしれない。
昔は旅-Cafeとして活動されていたそうだ。
それがこの企画をされているYさんが私のところに来られてFBのお友達となった。
どうもこのブログを時々読んでいてくれたようだ。
私も面白そうな企画が多いのでその報告などを読んで楽しんでいたのだが、今回かすみがうら市の旧出島地区の空也堂を取り上げた企画が私の心をつかんでしまったのだ。
もう5年ほど前にこの出島地区を30~40回にわたって出島散歩としてまとめたことがある。
この地区に興味を持たれる方は実は少ない。
私が歩き回って書いた記事もその後ほとんど見向きもされない。
明治になり鉄道が走るようになって都市部から見るこのあたりのイメージがきっと変わってしまったのだろう。
霞ケ浦にたくさんの高瀬舟が浮かんでいたとき、またそのもっと前の時代にこのあたりはきっと豊かな場所だったに違いない。
映画「米」などではまずしい地区として描かれているが、今回の旅を通じてそれは間違いだということに気が付いた。
ここに暮らす人たちはみな心も皆驚くほど優しく豊かであった。
私がこのブログを書くきっかけになったのは、石岡が常陸国国府で、古代の東海道がこのあたりも通っていたかもしれないとその痕跡を探し始めたことでもあった。
いくらそのようなことを書いても自己満足にしかならないかもしれないのだが・・・・。
それが私の脳裏には、今回の旅で美浦村から出島に渡った牛の話と宍倉にあるこの空也堂がつながってきた。
空也上人などという人は名前は聞いたことがあるが、痕跡は会津と京都だけであまり伝わっていないのでまったくと言って知識がない。
阿弥陀聖だとか念仏踊りだとか、念仏を唱えれば極楽浄土に行けるだとか・・・・話には時々聴くがほとんど実態は理解していない。
法然は室町時代から鎌倉時代にかけての思想だし、親鸞も法然を師として教えを受けていた。
さて、こ空也上人はそれより150年ほど前。将門の時代と重なる。
念仏を唱え浄土教の祖とも言われるという。
それが空也の残したものとして有名な京都六波羅蜜寺と会津の八葉寺と並んで日本三空也といわれるものがこんなひっそりとして隠されたようにここかすみがうら市宍倉にある「空也堂」であり、空也の墓もあるとも・・・。
何故?
旅-ぶらの当日いただいた資料にかなり詳しく書かれていたがやはり私には理解できなかった。
でも普段公開されることがない空也堂の空也像が今回みられるという。
もうこれだけで今回の企画に参加する価値がある。
ここには5年ほど前に一人できて、周辺を歩き回った。
「空也堂」「堂山千手観音堂(公民館)」「福蔵寺」「宍倉城跡」など。
その時にこの地に不思議な空気が流れていることを感じていた。
通り沿いにポツンとあり周りに塀もない「福蔵寺」にはたくさんの四国八十八カ所の石塔が置かれていた。
(その時の記事は ⇒ こちら)
そしてこの地区で、毎年1月17日にお寺にある「大般若経」を持って各家庭を周り、お札を配り、お礼にお米を奉納したという話を書いた(今はお米ではなく現金)。
どこかこの部落全体が信仰心が強いという気がしたのである。
さて、今回この空也堂を開けて見せていただけることになった。

これが空也像。
東日本大震災で空也上人の口からでていた阿弥陀三尊像が取れてしまったという。

この阿弥陀三尊像が口のところについていたのだという。
六波羅蜜寺の空也像は写真で見たことはあるが、南無阿弥陀仏と唱えていたということで6体の像が口から飛び出す象で知られます。
こちらは阿弥陀の三尊です。
阿弥陀経が浄土宗や浄土真宗にならずに浄土教としてここでは空也が祀られて1000年以上も続いてきたのでしょうか?

この空也像は片目をつむっているように見えます。
また上を向いたその様子は六波羅蜜寺のものと似ています。
近寄ってそのお顔を見るとなんともやさいいお顔です。

右手の杖も折れてしまったのでしょうか?
鹿の角がついていたのでしょうか?


阿弥陀三尊の絵も残されています。


また古いいわれを書いた巻物も・・・。

空也上人縁起

鹿の角も一対。
これは空也上人の杖に鹿の角をつけていたということでしょうか。
ここの地名である「宍倉(ししくら)」もかなり古い地名で新治郡宍倉邑がシシクラの名前のルーツとなり千葉県などにたくさん広がったようです。
この地に伝わる名前の由来は鹿を埋葬した塚を鹿蔵(ししくら)と言っていたものが宍倉となったのだという。
そしてこの地に小田氏の重要家臣菅谷(すがのや)氏が住み着いて浄土教を信仰したということのように思います。

宍倉城の城主だった菅谷氏は中世に一大勢力を誇った小田氏の重要家臣の一人で、この宍倉に入ったのは1451年?ころのようです。
小田氏は鎌倉幕府の御家人として力を発揮していましたが、たしか善光寺を信仰していたと思っていました。
新善光寺の小田氏にかかわる寺などがたくさんあります。
でも律宗の僧「忍性」が小田氏のもとで筑波山 宝篋山の麓に極楽寺という大きな寺を建てたといわれ、これが13世紀末頃でしょうか。
でもこの地ではこの空也が信仰されてきたのでしょう。
古代の東海道がこのあたりを通っていたとしても何の不思議もありません。
この空也堂の真南が牛渡になります。
そしてここから小舟に乗って菱木川を上り、笄崎あたりまで舟で行って、三村の方から恋瀬川を渡って国府石岡に向かっていたというルートが見えてきます。
石岡は鹿の子遺跡から水戸の台渡里までの古道も八幡太郎の伝説と重なって伝えられています。

美浦村に伝わる八幡太郎の伝説はやはり長者の屋敷に火をつけて燃やしてしまう話でした。
これはこの台渡里長者の話とそっくりです。
同じような話があちこちにあるのはどうしてなのでしょうね。
鎌倉時代の「いざ鎌倉」の昔読んだ歴史絵本が思い浮かぶのもまたどうしてなのか。
今回かすみがうら歴史博物館で、伊藤幾久造の絵の展示会が開かれていた。
これまた素晴らしかった。
昔の歴史絵本などの表紙絵などもたくさん手がけていたようだ。
懐かしかった。
しかし日本が、美人画などはこれまた素晴らしい。
こちらがもう少し評価されても良いと感じた。
また少しずつ調べていきたい。

私がまとめた本ももう少し調べて書き換えることも必要かもしれない。
家事の合間に読ませていただき
すごいな〜と思い、コメントを
残させていただきます。
私も空也像、フォルムが印象的で
知っておりましたが
落ちてしまった部分などを
見ると、これも空也ですね^_^
修復はされないんですかね?
こうなると落ちてしまった部分が
ついた形が見たいなぁと
思ってしまいます。
背景についても詳しく解説いただき
興味深く読ませていただきました。
色味もあってまた違う感じの
空也像ですが、様々なことが見えて
朝から良いものを
読ませていただきました。
ありがとうございました。
興味を持っていただきうれしいです。
この後に銀座の空也もなかをいただきました。
いろいろしゃれた催しでしたよ。
この時の記事はフェースブックに書いてしまったのでブログはこれだけです。
もしよければたぶんみられると思いますので見てください。
https://www.facebook.com/profile.php?id=100010661441830
いただいた資料には口から阿弥陀像が出ているものが残されていました。
参考までに載せておきますね。
http://www.rekishinosato.com/gazou/kuuya.jpg