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(常陸)小川の旧町並みと天妃尊

 百里基地、茨城空港のおひざ元 小美玉市の旧小川町の旧道には、今も昔ながらの面影が残されています。
今は横を県道が走り、私もこちらの通りはほとんど通ることはありません。

江戸時代には水戸藩の医学郷校があり、霞ケ浦につながる水運の重要基地として多くの物資や人の流れがあったはずです。
鹿島鉄道が引かれる時も、水運業者の反対もあり常陸小川駅も隣の玉里村に作られました。
その鉄道も今はありません。

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どこか懐かしくなるような建物が残されています。

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たしかに昔はどんな街にも中心地にはこのような建物が続いていたように思います。
でも今残されているものは少なくなりました。

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その町並みの途中に「天聖寺」という今は本堂がなく墓地だけの寺があります。

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階段を上るとそこには禅寺にある「不許葷酒入山門」という結界石が置かれています。
石段の両側にはびっしりと古い石板(墓碑?)や地蔵尊などが置かれています。

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階段を上った先は寺も大きな墓地(墓石を見ると多くが神道式?)が広がりますが、その手前に石蔵があり海洋の女神「天妃尊像」の写真と説明文が置かれています。

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この天聖寺はかなり大きな寺でした。
江戸時代に水戸藩の領地となっていたこの小川の町を水戸藩は非常に重要な拠点として大切にしてきました。


特に水戸黄門(義公 光圀)は水戸祇園寺に自ら祇園寺の三世として招いた名僧嵐山(大日本史編纂にも携わった)の余生を送るための場所としてこの寺を与え、施設や庭を整備しました。

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この天妃尊は中国の民間信仰の女神で、水戸光圀(義公)が中国より招き、祇園寺の開祖となった僧「心超禅師」が中国より持参した像を模して三体造り、その一つを祇園寺三世嵐山がこちらに持ってきたものと言われています。

残りの2体は、北茨城の弟橘神社、大洗の弟橘比売神社(天妃神社)に祀られているようです。
弟橘姫はご存じのヤマトタケルの妃ですから日本の神様ですが、天妃という中国の妃も寺に祀られたが、明治の初期におそらく禁止され、神社として弟橘姫を祀るようになったものと思われます。

この寺も天狗党の乱ですべて焼失し、今は廃寺となってしまいました。(墓地は管理されているようです)
芭蕉の医師で友人だった潮来の本間家もこの小川医学郷校が進んだ医療をしていたためにこちらに移ってきており、この墓所に墓があります。

またこの寺の本尊は信州善光寺の本尊を模して800年以上前に作られた全国に48体しかないものうちの一つということですが、いまのこされているかどうかはよくわかりません。
恐らく天狗党がこの寺に集まっていたために、火をつけられすべて燃えてしまったのかもしれません。





小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2017/07/18 22:58
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