天狗が連れて行ってくれた祇園祭り
7月になると京都をはじめ各地で「祇園祭」が行われる。
この祇園祭は京都の八坂神社を中心として全国各地の「八坂神社」や「素鵞神社」などで行われる祭りで、庶民の中心的な祭りと言ってよいだろう。
しかし愛宕山の天狗の話を調べていくと、当時に祭りで最大の祭りはどうも「津島の祇園祭」だと書かれていて、これが素晴らしいので一生に一度はみてみたいという願いをかなえるために年老いた母親や子供たちを天狗が目隠しさせ、背中にのせて空を飛んでこの祭りを見に連れていく。
いったいどんな祭りなのだろうか。
石岡の貉内にある寺につたわる愛宕山の十三番目の天狗になった長楽寺の話では、
「ある夏のこと、暑かった日も暮れた6月14日の晩に年老いた母は息子に聞しかけた。
「わしも、お前がよくしてくれるので何の苦労もない、このままいつお迎えがあっても憾みはないが、まあ一つだけ願いが叶うとすれば明日行なわれるという日本一の祇園と評判の津島の祇園を一度見物したいものだ。しかし、津島というところはとても遠いというし、この足ではとても行くことはできないね。まあ諦めるほかはないね」
と言って笑った。
するとこの若者はしばらく考えていたが、
「お母さん、津島に行くことはできますよ。そう遠くはないので、今から出かければ夜の明ける頃までには着くことができるので行って来ましょう」
と言って、若者は白い行衣を着て老母を背負い目がまわると困るからといって老母に手拭で目かくしをして出かけた。
老母は息子が自分を慰めようと、何処か近くに連れていくのだと考えて、息子の背にしがみついているうちに眠ってしまった。
「さあ着いた」と若者がいうので、目をさました老母は眼の前の光景に目を見張った。
今まで話にはきいても見たことがない広い広い海、その浜辺に集まっている何十隻とも知れぬ大船小船が、青・赤色とりどりの旗をひるがえして、勇ましい笛太鼓のはやし、それを見物する人達が浜に群れて、その賑やかなこと。
老母にはまったく夢心地であった。」
と出てくる。
この津島の祇園は全国の天王社の総本山といわれる尾張津島にある天王社の祭りだ。
これをWikipediaでしらべてみると、歌川広重が江戸時代末期に全国の名所を浮世絵で表した「六十余州名所図会」の中の1枚「津嶋 天王祭り」である。

今でもこの天王祭は行われていて、天王川に津島五車のまきわら船を浮かべ、提灯に灯がともされると、宵祭の始まる。
地元のプロモーションビデオがあるので紹介します。
今年も昨夜(7/22夜)に行われた。
またユネスコ登録を祝って花火も9000発も打ち上げられたという。
さてこの祭りがおこなわれる「津島神社」は、元々は津島牛頭天王社」といい、インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神である牛頭天王を祀る寺であり神社ではなかった。
Wikipediaによれば明治の神仏分離の際、建物・祭事などにおけるあらゆる仏教的な要素は廃され、祭神を建速須佐之男命とし、社名から牛頭天王の名を外して津島神社としたという。
これと共に全国にあった天王社は建速須佐之男命(スサノオ)を祭神とした八坂神社や素鵞神社などに名前を変更している。
祇園神、牛頭天王、スサノオ・・・などの朝鮮半島から対馬経由で日本に入ってきた経緯や、日本の神道、祇園祭などの関係はどのようになっているのかもう少し調べて理解をする必要がありそうだ。
天王社は神仏習合で全く問題なく祀られていたようだが・・・・
そうしなければきっと仙道寅吉に向き合った平田篤胤の仙境異聞なども理解できそうにない。
これはまたの機会に譲ろう。
また水戸祇園寺の末寺であると小川天聖寺や茨城町の慈雲寺 などのあの独特の不思議空間がどうもよく理解できていない。
ここにはやはり天狗と対馬の祇園祭が出てくる。
水戸光圀の時代にはどのような意味合いがあったのか。
この祇園祭は京都の八坂神社を中心として全国各地の「八坂神社」や「素鵞神社」などで行われる祭りで、庶民の中心的な祭りと言ってよいだろう。
しかし愛宕山の天狗の話を調べていくと、当時に祭りで最大の祭りはどうも「津島の祇園祭」だと書かれていて、これが素晴らしいので一生に一度はみてみたいという願いをかなえるために年老いた母親や子供たちを天狗が目隠しさせ、背中にのせて空を飛んでこの祭りを見に連れていく。
いったいどんな祭りなのだろうか。
石岡の貉内にある寺につたわる愛宕山の十三番目の天狗になった長楽寺の話では、
「ある夏のこと、暑かった日も暮れた6月14日の晩に年老いた母は息子に聞しかけた。
「わしも、お前がよくしてくれるので何の苦労もない、このままいつお迎えがあっても憾みはないが、まあ一つだけ願いが叶うとすれば明日行なわれるという日本一の祇園と評判の津島の祇園を一度見物したいものだ。しかし、津島というところはとても遠いというし、この足ではとても行くことはできないね。まあ諦めるほかはないね」
と言って笑った。
するとこの若者はしばらく考えていたが、
「お母さん、津島に行くことはできますよ。そう遠くはないので、今から出かければ夜の明ける頃までには着くことができるので行って来ましょう」
と言って、若者は白い行衣を着て老母を背負い目がまわると困るからといって老母に手拭で目かくしをして出かけた。
老母は息子が自分を慰めようと、何処か近くに連れていくのだと考えて、息子の背にしがみついているうちに眠ってしまった。
「さあ着いた」と若者がいうので、目をさました老母は眼の前の光景に目を見張った。
今まで話にはきいても見たことがない広い広い海、その浜辺に集まっている何十隻とも知れぬ大船小船が、青・赤色とりどりの旗をひるがえして、勇ましい笛太鼓のはやし、それを見物する人達が浜に群れて、その賑やかなこと。
老母にはまったく夢心地であった。」
と出てくる。
この津島の祇園は全国の天王社の総本山といわれる尾張津島にある天王社の祭りだ。
これをWikipediaでしらべてみると、歌川広重が江戸時代末期に全国の名所を浮世絵で表した「六十余州名所図会」の中の1枚「津嶋 天王祭り」である。

今でもこの天王祭は行われていて、天王川に津島五車のまきわら船を浮かべ、提灯に灯がともされると、宵祭の始まる。
地元のプロモーションビデオがあるので紹介します。
今年も昨夜(7/22夜)に行われた。
またユネスコ登録を祝って花火も9000発も打ち上げられたという。
さてこの祭りがおこなわれる「津島神社」は、元々は津島牛頭天王社」といい、インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神である牛頭天王を祀る寺であり神社ではなかった。
Wikipediaによれば明治の神仏分離の際、建物・祭事などにおけるあらゆる仏教的な要素は廃され、祭神を建速須佐之男命とし、社名から牛頭天王の名を外して津島神社としたという。
これと共に全国にあった天王社は建速須佐之男命(スサノオ)を祭神とした八坂神社や素鵞神社などに名前を変更している。
祇園神、牛頭天王、スサノオ・・・などの朝鮮半島から対馬経由で日本に入ってきた経緯や、日本の神道、祇園祭などの関係はどのようになっているのかもう少し調べて理解をする必要がありそうだ。
天王社は神仏習合で全く問題なく祀られていたようだが・・・・
そうしなければきっと仙道寅吉に向き合った平田篤胤の仙境異聞なども理解できそうにない。
これはまたの機会に譲ろう。
また水戸祇園寺の末寺であると小川天聖寺や茨城町の慈雲寺 などのあの独特の不思議空間がどうもよく理解できていない。
ここにはやはり天狗と対馬の祇園祭が出てくる。
水戸光圀の時代にはどのような意味合いがあったのか。
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