常陸の天狗世界(2)

 江戸時代に国学者平田篤胤が書いた「仙境異聞」に登場する天狗小僧「寅吉」は本当にいたのか?

どうもこれは本当らしい。
この寅吉少年のその後を調査した話も散見する。
神通力のような能力をもった少年だったのかもしれない。

少年はそれから何度も常陸国と行き来していたようだが、次第にその能力もなくなり普通に亡くなったという。
そして天狗から得た薬湯で子孫は銚子に銭湯(旅館?)を始めたという。

これも昭和30年代の銭湯の衰退と共に営業は終わったようである。

さて、それはさておき、何故この常陸国の岩間山が選ばれたのか?

どうも私たちは今の行政区分でその場所を理解しようとする。
石岡市(旧八郷町)と笠間市(旧岩間町)との境は鐘転山(かねころばしやま)から難台山(なんだいさん)、吾国山(わがくにさん)に連なる山の稜線である。

愛宕山(旧岩間山)はこの稜線からは少し笠間市(旧岩間町)側にずれて飛び出したような場所にある。

愛宕山2

上の地図の左下部分は石岡市旧八郷地区でもある真家・山﨑~瓦会(瓦谷)地区。
右上が笠間市旧岩間地区の泉・市野谷~上郷地区。

地図で見ると実に近いがお互いを結ぶ峠道路がない。

このため、比較的お互いが遠く感じるように思う。

たとえば石岡側の山間には馬滝と鳴滝という2つの滝があるが、山道を滝まで登ってもその先の山を越えれば愛宕山だという感覚はあまりない。
愛宕山に行くには山のふもとをぐるっと回っていかねばならない。

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(鳴滝)

ではもう少し具体的に見ていこう。

愛宕山(旧岩間山)は山の上に愛宕神社があり火防の神様として消防団などの参拝者があとを絶たない。
この神社の起源は奈良時代から平安時代初期にかけて奈良から会津まで各地の山などに寺を建てた法相宗の徳一法師が大同元年(806年)に建てたとされている。
これは筑波山に中禅寺(現大御堂、筑波神社)を建てた年782年の24年後だ。

徳一法師といえば会津(磐梯)慧日寺が有名だが、この慧日寺の建立は807年というからその1年前になる。
この辺りでは、関東の清水寺「西光院」もそうだし、笠間稲荷もそうだ。

やはり当初は寺であったのだろうが、何時の時代かわからないが愛宕宮が勧請されて「日本火防三山の一」といわれるようになったものだという。(現地の看板に日本火防三山の一と書かれている)

神社本殿の裏手に階段があり、その上に飯綱神社(奥社)がある。
手力男命を祀る飯綱神社の本殿は、青銅製の六角形で亀の甲羅のような六角形の石の上におかれている。
この本殿は戦後に一事は破壊されたが、修理された。
六角殿の後方には、この愛宕山を守護した十三人天狗の石祠が並んでいて、愛宕山を守護している。

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(愛宕山の天狗の記事 ⇒ こちら(2011年1月)

12月には奇祭として知られる悪態祭りがこの神社を中心に行われる。
昔は女人禁制で参加者は数日前から身を清めて夜中に行われてきたといわれていますが、現在は昼間から行い男女関係無く見物できます。

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(悪態まつりの記事 ⇒ こちら(2011年12月)

何故この愛宕山に13天狗が集まるようになったのかはわかりませんが、筑波山や加波山についでこの山系の信仰の中心の山であったのだと思います。

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この愛宕山の上からは東側(海側)の常陸平野が手に取るように眺められます。

さて天狗小僧寅吉は7歳のときに江戸の街で卜術を使う不思議な人物に出会い、毎日のように見物していると、その人物は商売が終わると道具を持っていた壷の中に納め、最後に自分も壷に入って壷ごと飛んで消えてしまったところを見ます。
何度かこれを見ていたある日その卜師が寅吉をその壷に入れて空を飛んで最初にやってきたのが、岩間山の隣にある南台丈(難台山)の獅子ヶ鼻(通称天狗の鼻)といわれる大きな突き出した岩の上でした。(一番上の地図に記載しています)

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(写真は日本の奇岩百景より拝借)

さて、寅吉の話は江戸時代ですが、この難台山というのはもっと昔の南北朝時代に起こった熾烈を極めた戦場として知られた場所です。
最初に示した地図の山の左下には「有明の松」、右側下には「首洗いの滝」という場所があります。
それぞれこの山での攻防にまつわる悲しい記録を残すものです。

<難台山城の攻防>
 
難台山(553m)には、県指定史跡の「難台山城跡」があり、南北朝時代(1380年)、南朝方の小山義政が難台山中に城郭を造り、足利軍と合戦(小山義政の乱)して破れ、さらに、1387年、小田五郎藤綱と義政の子・若犬丸が、再度、難台山に陣を構え(拠点であった小田城(祇園城)を追われてここに陣を構えた)、北朝足利方の上杉朝宗と合戦した山だ。

8か月に及ぶ籠城、攻防の末、食糧供給の道を遮断され、食料が尽き難攻不落の要害もついに落城のときを迎えた。

藤綱は難台城に残っていたの婦女子を敵の手が少ない方向に少しの従者を連れてがよるくらい中を逃がすことに下のです。
道なき道を敵に見つからないように夜を徹して山を下りて、1本の松の下に集まり、夜を明かしました。

その時に見た夜明けの空が大変すばらしかったので「有明の松」と名付けられたと伝えられています

藤綱は山城を焼いて自害し、若犬丸を逃がし、小田五郎は郎党百名あまりとともに討ち死にしたと伝えられています。

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(在りしの有明の松。今は松くい虫でやられ、この後の松が育っています。)

では山の反対側(笠間側)の山中(黒丸地区)には「首洗いの滝」という少し驚くような名前の滝があります。
あまり大きな滝ではなく長さは8mくらいのものです。
私はまだ行ったことがありませんので写真は撮っていません。

南北朝時代に南朝方の小田五郎藤綱がこの山の上の城に立てこもり、北朝方の上杉勢と数か月にわたって死闘を繰り返したのです。
最後は兵糧攻めに対抗できずに藤綱は自害して果てますが、この攻防時に南朝方の将軍たちの首をこの滝で洗い清めて持ち帰ったと伝えられています。
同じような戦場は何か所もありますがこのような名前が付けられている場所も少ないと思います。
何か今もその怨念が山中に残っているような気になります。

さてもう一つ、江戸時代に上の地図の南に「瀬戸井街道」という街道が通っていたようです。
これも今では忘れされれている街道の一つですが、群馬県千代田町瀬戸井から筑波山を通って水戸までの筑波山詣での道です。
水戸から岩間までは現在の県道30号線(水戸岩間街道)、瀬戸井から筑波までは国道125号線

こちらは前に記事を書いているので興味がある方は読んでみてください。 ⇒ こちら(瀬戸井海道)

やはりこのような話は石岡だの八郷だの笠間だのと言わずにもう少し広域的にくくって眺めたほうがよいと思います。
ジオパークでつながった市町村は行政も自分たちの枠をもう少し限定せずに大きくとらえてほしいと思います。

貉内の長楽寺などは実に美しい寺です。
単独で考えるのではなく天狗の飛び回った山々には境はなかったでしょうし、徳一法師が建てた寺などをぐるっと回ればみんなつながってきます。

筑波山神社(大御堂)、筑波四面薬師(土浦市東城寺、桜川市椎尾薬師、石岡市十三塚山寺(廃寺)、石岡市菖蒲沢薬師)、峯寺山西光院(関東の清水寺)、愛宕山神社(十三天狗、日本火防三社の一)、笠間稲荷(関東三大稲荷)、羽黒の月山寺(枯山水日本庭園が美しい))などみな観光名所になるところばかりです。
また親鸞聖人の歩いた道、弟子たちの寺などをまとめてみても結構面白いです。

こんな見方でくくってみても面白そうな場所が連なっています。

こんな記事も時々はいいかなと思っています。

天狗の話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2017/07/28 14:46
コメント
広域を自由に
 ともすれば地域に縛られがちな歴史観ですが、それを超えるのが天狗に凝縮される広い世界への展望であり戒めと思います。
 南北朝時代からの流れが土地に染みついているようで、楽しく拝読しました。
野火止用水さま
コメントありがとうございます。

東京も23区と多摩地区とは少し温度差がありますか?
地方にいるともっと極端でそちらでいえば東大和市と立川市や東村山市などといった市境をかんじることに特に違和感を感じることがあります。
地方行政はある程度やむを得ないのですが、住んでいる人に昔の歴史は共通することも多いのですが・・・・。
この天狗の話や小町伝説などは2つの市にかかわっているのですが、どうしてもお互いの連携がありません。
そんな思いを書かせていただきました。
コメントうれしく拝見。多謝いたします。

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