竹久夢二とベルリン
千葉県銚子は夢二にとって「宵待草」の発想の地であり、淡い失恋の土地であるが、その対岸の茨城県側の波崎海岸付近にも竹久夢二の歌碑が置かれている。

三月一日 夢二
つまつまと
ぱんに鰯(いわし)を
そへてくふ
伯林(べるりん)の冬に
あが
なじみ
けり
時代的には宵待草は夢二は20歳代の明治末期であるが、こちらに置かれている詩は夢二が晩年に行ったベルリンで書かれたものである。
前にもこの碑の紹介をしている(前の記事:こちら)が、今回また訪れてみて、時代背景などを調べてみた。
夢二研究家なら知っていると思うが、あまりこの晩年の話は知られていないようだ。
とても興味深いので紹介しておきたい。
現地(波崎公園)の説明版には次のように記されている。
「この歌は夢二が昭和六年から昭和八年まで外遊したおりにベルリンで描いた未完の水彩画の右下にしたためられたものである。
この未完の水彩画にはベコニアの花が描かれており、夢二の没後夢二と親交のあった波崎町の山本定平氏に夢二愛用の蝶ネクタイ、雑誌の挿絵原稿(少女の絵)とともに託されたものである。
また代表作の一つである「光れる水」には、利根川の向こうに波崎の庚申台と家並みが描かれている。」
と書かれています。
前回ここを訪れ、この石碑を見て私は単に銚子の対岸の波崎で、夢二がイワシが好きだったことくらいの印象しか感じなかったのですが、今回再訪してみて、この歌の年代と、ベルリンという響きに「何故、夢二は第二次世界大戦前のベルリンに行ったのだろうか?」と調べてみたくなりました。
夢二は1931年(昭和6年)5月7日に横浜港から船でホノルル経由でアメリカ・ロサンゼルスへ出向しました。
その時夢二は46歳でした。
また同じ船には舞踊家の伊藤道郎や、ハリウッド俳優で活躍した早川雪洲などがいました。
アメリカでは西海岸を中心に個展などを開き、1年3月滞在して1932年9月にヨーロッパに渡り欧州各地を回ったようです。
そして年末までウィーンに滞在しますが、年が明けてた1933年1月にベルリンに移っています。
そしてベルリンではユダヤ人たちを集めて絵を教えています。
また、その当時のドイツではヒットラー率いるナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)が1932年7月の総選挙でドイツの第一党にのし上がっています。
ヒットラーの独裁政治は一見民主的な手続きに従っていますが、強いドイツを熱望する民衆がそれを支持したのでしょう。
アメリカファーストだの日本ファーストだのという言葉の響きは私にはこの当時のドイツの思いに似たものがあるように感じます。
さて、夢二がどの程度ユダヤ人の救済活動をしていたかはよくわかりません。
でも当時のベルリンの絵などを見ると一見平和そうに見えます。

1933年作 「ベルリンの公園(ウィッテルスパッヒヤー公園)」 夢二郷土美術館蔵
段々ユダヤ人弾圧が広がり始めていたころの1933年8月に夢二はベルリンを離れ、9月に神戸に戻りました。
しかし、帰国後結核を発症し、翌年9月に亡くなりました。49歳11か月です。
夢二というと大正ロマンとばかり思い浮かべますが、銚子の方は明治末期、こちらの方は昭和初期です。

波崎公園には「はさき丸」というコンクリート製の船のモニュメントが置かれています。
場所は利根川の河口の先端です。

波崎も風が強いのでしょう。
今や銚子と並んで風車が目立ちます。
さて、イワシとパンの組み合わせですが、ヨーロッパでは各地で食べられているようです。
イワシ、パンで検索してみると、「ポルトガル」ではイワシを塩焼きにしてパンの上にのせてイワシを食べ、味のしみこんだパンをその後に食べるのがどうも一般的なようだ。
またスイスなどではイワシの缶詰をパンにのせて食べるらしいです。
トルコなどでも食べられているようですのでヨーロッパ各地できっとイワシにパンの組み合わせで食べられているのだと思います。
こんなことも新しい発見でした。
次は銚子側の夢二を追いかけてみたいと思います。

三月一日 夢二
つまつまと
ぱんに鰯(いわし)を
そへてくふ
伯林(べるりん)の冬に
あが
なじみ
けり
時代的には宵待草は夢二は20歳代の明治末期であるが、こちらに置かれている詩は夢二が晩年に行ったベルリンで書かれたものである。
前にもこの碑の紹介をしている(前の記事:こちら)が、今回また訪れてみて、時代背景などを調べてみた。
夢二研究家なら知っていると思うが、あまりこの晩年の話は知られていないようだ。
とても興味深いので紹介しておきたい。
現地(波崎公園)の説明版には次のように記されている。
「この歌は夢二が昭和六年から昭和八年まで外遊したおりにベルリンで描いた未完の水彩画の右下にしたためられたものである。
この未完の水彩画にはベコニアの花が描かれており、夢二の没後夢二と親交のあった波崎町の山本定平氏に夢二愛用の蝶ネクタイ、雑誌の挿絵原稿(少女の絵)とともに託されたものである。
また代表作の一つである「光れる水」には、利根川の向こうに波崎の庚申台と家並みが描かれている。」
と書かれています。
前回ここを訪れ、この石碑を見て私は単に銚子の対岸の波崎で、夢二がイワシが好きだったことくらいの印象しか感じなかったのですが、今回再訪してみて、この歌の年代と、ベルリンという響きに「何故、夢二は第二次世界大戦前のベルリンに行ったのだろうか?」と調べてみたくなりました。
夢二は1931年(昭和6年)5月7日に横浜港から船でホノルル経由でアメリカ・ロサンゼルスへ出向しました。
その時夢二は46歳でした。
また同じ船には舞踊家の伊藤道郎や、ハリウッド俳優で活躍した早川雪洲などがいました。
アメリカでは西海岸を中心に個展などを開き、1年3月滞在して1932年9月にヨーロッパに渡り欧州各地を回ったようです。
そして年末までウィーンに滞在しますが、年が明けてた1933年1月にベルリンに移っています。
そしてベルリンではユダヤ人たちを集めて絵を教えています。
また、その当時のドイツではヒットラー率いるナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)が1932年7月の総選挙でドイツの第一党にのし上がっています。
ヒットラーの独裁政治は一見民主的な手続きに従っていますが、強いドイツを熱望する民衆がそれを支持したのでしょう。
アメリカファーストだの日本ファーストだのという言葉の響きは私にはこの当時のドイツの思いに似たものがあるように感じます。
さて、夢二がどの程度ユダヤ人の救済活動をしていたかはよくわかりません。
でも当時のベルリンの絵などを見ると一見平和そうに見えます。

1933年作 「ベルリンの公園(ウィッテルスパッヒヤー公園)」 夢二郷土美術館蔵
段々ユダヤ人弾圧が広がり始めていたころの1933年8月に夢二はベルリンを離れ、9月に神戸に戻りました。
しかし、帰国後結核を発症し、翌年9月に亡くなりました。49歳11か月です。
夢二というと大正ロマンとばかり思い浮かべますが、銚子の方は明治末期、こちらの方は昭和初期です。

波崎公園には「はさき丸」というコンクリート製の船のモニュメントが置かれています。
場所は利根川の河口の先端です。

波崎も風が強いのでしょう。
今や銚子と並んで風車が目立ちます。
さて、イワシとパンの組み合わせですが、ヨーロッパでは各地で食べられているようです。
イワシ、パンで検索してみると、「ポルトガル」ではイワシを塩焼きにしてパンの上にのせてイワシを食べ、味のしみこんだパンをその後に食べるのがどうも一般的なようだ。
またスイスなどではイワシの缶詰をパンにのせて食べるらしいです。
トルコなどでも食べられているようですのでヨーロッパ各地できっとイワシにパンの組み合わせで食べられているのだと思います。
こんなことも新しい発見でした。
次は銚子側の夢二を追いかけてみたいと思います。
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