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武田の里

 今日は行方市にある「武田の里」の紹介です。

山梨県韮崎にも「武田の里」がありますが、それとは違います。

こんなところ何処にあるの? と思われるかもしれません。

茨城県行方市の旧北浦町です。 鹿行大橋の少し手前です。

でも、ほとんど知られていないと思います。

石岡から奈良霞ケ浦北岸に沿って国道355線を玉造まで行って、そこから354号線で鹿行大橋方面に進みます。
土浦方面なら霞ケ浦大橋を渡ってそのまま進みます。

鹿行大橋の少し手前の右側にあります。

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実はこのあたりは「武田」地区と言われています。

ここは甲斐の武田氏の一族が、上杉禅秀の乱(1416年)のころに移り住んだと伝えられています。

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甲斐(山梨県)の武田信玄で有名な武田氏は源氏の血筋で、常陸国とつながりがあるといわれています。

話しは源氏の八幡太郎義家の弟の新羅三郎が兄の義家の奥州征伐(後三年の役)に応援で駆けつけ、戦いに勝利した後、都に戻ってから常陸介としてふたたび常陸国(茨城県)にやってきます。

そしてひたちなか市の武田郷(勝田の少し南)に住み、武田冠者などと呼ばれます。

この義光の長男が戦国時代に常陸国を統一した佐竹氏となります。

義光は長男をすぐ上の兄のところに養子に出してしまったので、次男を連れて常陸国で暮らしていました。
そして領地を広げて、鹿島神宮領にからんで争いが起こり、常陸国から追われて甲斐国に逃げたといわれますが、詳細はいくつか説があり詳しくはわかりません。

さて、この北浦近くの西側(行方市)に甲斐国の武田氏の一族が移り住んだといわれるのは上杉禅秀の乱(1416年)の頃だといわれています。
まあ常陸国を追われてその子孫の一部がまた舞い戻ってきたのでしょう。

甲斐武田氏の10代(甲斐源氏13代)当主(武田氏の初代は義光の孫である源清光の次男とした)である武田信満が親戚関係にもあった上杉禅秀に味方して敗れ、木賊山(後の天目山)で自害するという事件が発生しました。
天目山は後に、信長に敗れた武田勝頼が自害(1582年)したところですね。

さて、この北浦の武田氏はこの武田信満の弟である武田信久が、兄が自害した時に千葉兼胤を頼って千葉に逃れてきたのが始まりだとされているようです。

そして翌年の 応永24年(1417)にこの北浦の地に逃れ、ここに城(神明城)を築いて住み着いたと伝わっています。

1438年に西砦、1455年に小貫城、1533年に木崎城を築いています。

しかし、1590年の佐竹氏の常陸国統一時にこの城なども消滅してしまいました。

同じ源氏の仲間、しかも先祖は同じなのに佐竹氏にやられてしまったようです。

ただ、この地を選んだのも、元々のひたちなか市武田郷にいた武田氏の一部が大洋村側からこの辺り一帯に住んでいたのではないかともいわれていて詳しくはわかりません。

かなり興味深いのですが・・・・

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いまはこの「ふきのとう」という地域おこしの建物といくつかの建物がありますが、あまり活発な様子は見えませんでした。
ネットで検索すれば何かイベントやこのあたりを散策するツアーのような企画をやっているようです。

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でもどこも地域おこしと言っても大変ですね。

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小美玉・行方地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2017/12/22 21:13
コメント
No title
武田氏の話、おもしろいですね。佐竹氏がその流れであるとのも初めて知りました。武田系子孫同士の戦いもあったのですね。
kincyanさん
あまり面白くもないという記事ですが、ご興味をもっていただき感謝です。
まあ昔は源氏も平氏も入り乱れ、結構つながっていますので長い間にはどこかでつながっていたりしそうです。
まあこんな話もあるということで・・・・
正確にはわからないことも多いですね。
秋田県知事の佐竹さんは常陸から移った子孫ですね。

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