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人面不知何処去、 桃花依旧笑春風

 少し前から、JR東日本「大人の休日クラブ」のCMで大田原市(黒羽)の雲厳寺が紹介されています。
芭蕉が奥の細道で最も長く滞在した場所として紹介されています。

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茨城からも比較的近いので昔訪れたのですが、CM映像を見ているとまた行ってみたくなります。

このお寺についてはいくつか他のお寺などを調べていていくつか関連が出ていますが、やはり禅の心がいろいろなところに洗われています。

芭蕉の禅の師匠といわれる仏頂禅師が修業の為に近くの山の中に草庵を建てて暮らしていた。
この仏頂禅師は現在の茨城県鹿嶋市の阿玉あたりの出身だったかと思う。

根本寺から大儀寺に移った。

黒羽の雲厳寺の方丈には「人面不知何処去、 桃花依旧笑春風」と書かれた額が置かれている。

「人面は知らず何れの処にかえる、桃花舊に依って春風に咲(え)む」と読むようだが、意味としては

去年会った人はどこかへ行ってしまって、その行方は知らないけれども、そんなことには関係なく、桃の花は、春が来れば春風ににっこり笑うがごとくに咲く

といった意味のようだ。

あまり詳しく行った時はわからなかったが、禅の心で読まなければいけないようだ。

これは唐代の詩人 崔護の漢詩(題都城南莊)の一部で全文は

去年今日此門中     去年の今日、この門の中で美しい少女にあった
人面桃花相映紅     桃の花の紅が頬に映って美しかった
人面不知何処去     今年、少女はどこに行ったのだろう
桃花依旧笑春風     桃の花は去年と同じように春風を受けて咲いている

このことから「諸行無常」とか「一期一会」とかの言葉を思い浮かべるようです。

私がこのお寺を今思い浮かべているにはもう一つ訳があります。

山梨(塩山)にある恵林寺を調べていたときです。
この寺は武田信玄が再興して甲斐武田家の菩提寺として知られていますが、信玄が特に信頼していた「快川和尚」が詠んだ
「心頭を滅却すれば火も自ら涼し」という言葉が最も有名です。

信玄は信長・家康を討つために武田の騎馬隊を率いて行く途中で病に倒れなくなりました。
その死は遺言によって3年間伏せられ、3年後にこの恵林寺で葬儀が行われました。

しかし武田軍はその後長篠の戦いで大敗して天目山にて完全に敗北しました。
織田信長軍がこの恵林寺に逃げ込んだ武田方の武将の引き渡しを寺に要求しましたが、応じないために寺に火が放たれました。
燃え盛る三門の上で「快川和尚」はこの句を大声に叫んで死んでいったのです。

ここまでは知っておられる方も多いかもしれません。
でもこの恵林寺とこの雲厳寺は関係が深かったのです。

燃える恵林寺から快川和尚の弟子の「末宗瑞曷(まっしゅうずいかつ)」和尚は遠くこの雲厳寺に逃げ込んだのです。

恵林寺は信長が死んだあと家康の統治となりました。
この時、家康は武田氏の残された家臣たちを保護し、末宗瑞曷をよびもどして、恵林寺の復興にあたらせました。

家康が源氏の家系だと自称しているのは有名ですが、どこか源氏にあこがれを持っていたのでしょうか。
甲斐武田氏は源氏の一族です。





近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/04/21 23:22
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