息栖神社の社殿
鹿島・香取の両神宮と共に東国三社として知られる「息栖神社(いきすじんじゃ)」。
久しぶりに立ち寄りました。

他の二つの神社と比べると、その規模は比べ物にならないほどこじんまりしたものです。

ここが江戸時代に東国三社をめぐる信仰の対象となったことも忘れられそうです。
江戸時代には関東以北の人々は伊勢神宮参拝後に「下三宮参り」としてこの三社を巡る慣習もあったようです。

どんな順番に回っていたのでしょうか?
良くわかりませんが、「鹿島発ち」などといって、鹿島神宮から廻るという考え方もあったようです。

今回拝殿前に茅の輪が置かれていました。

さて、今回問題にしたいのはこのコンクリート製の社殿です。
何とも味気ないのです。

(拝殿裏に本殿がありますが、こちらもコンクリート製です)
この社殿は、昭和35年に火災で焼失し、3年後の昭和38年に鉄筋コンクリート造りで再建したものです。
それまでの社殿がどんなものであったのか? 調べると江戸時代の享保7年(1722年)に作られたもので華麗なものであったと書かれています。
ではその姿は? ネットで写真を探したけれど出てきませんので、戦前絵葉書を探してみました。
ありましたよ。潮来観光用の一種のようです。

これが社殿(拝殿)です。

こちらの門は今のものと同じですが、奥に見える社殿(拝殿)は違いますね。
神門は1847年製です。こちらは火事にあわなかったのです。
絵葉書では「楼門(ろうもん)」と書かれているようですが何故でしょうか?
基本的に楼門は2階建ての門ですね。それにお寺の門に多いと思います。
もっとも石岡にある善光寺の楼門は2階建てにするために材料を用意したけど1階だけ造ってやめたものだし、行方の西蓮寺は最初は2階建てだったけれど、途中で1階建てに改築したものです。それでも楼門と言っています。
いろいろありますね。

息栖神社の前の川にはこのような帆掛け船が・・・
「息栖神社は、天界の神舟が舞い降りる津」(津は港のこと)というイメージはわきません。
そういえば吉田松陰が水戸から銚子に行くときに、鹿島から潮来へ出て潮来から船に乗り、息栖に立ち寄って食事をとり、銚子手前の松岸へ着いたのは夜遅かった。当時松岸は遊郭があってにぎわっていた。
夜遅かったのも、帆の風待ちのためだと思うので帆かけ船だったと思う。
小林一茶が七番日記の文化14年(1817年)の5月に鹿島から潮来へ出て1泊し、潮来から船で卯上刻(朝5時~6時)に出発しています。 一茶は55歳でした。
潮来(板久)の俵屋(宿)の宿賃が150文、潮来から銚子への船賃が264文です。
銚子についたのは未下刻ですから午後2時~3時ころですね。 この船賃264文は現在では8000円くらいのようです。
結構時間がかかっていますので、松陰と同じように、この息栖あたりで降りてのんびりと食事でもしたのではないでしょうか?

こうしてネットで探してみるといろいろなものがわかるものですね。
潮来や息栖、それに銚子あたりのことを調べているとこの一茶の7番日記も時々出てくるのですが、私にとってはその前に立ち寄っているところも気になりますね。
・5月22日(晴)竜ヶ崎から女化原を通って土浦へ 稲市村近江屋弥五右衛門宅で1泊
・5月23日(晴)高浜で本間松江に会い、小川の今出屋惣八宅に1泊
・5月24日(晴)小川の本間家(医師)のところに1泊
・5月25日(晴)小川から4里離れた(北浦近くにある)化蘇沼稲荷神社に馬で送ってもらう。帆津倉(行方市三和、北浦)に1泊
・5月26日(晴)川(北浦)を越え、札村の普門寺へ。そこから鹿島詣でをして 大船津から舟で潮来側へ。
この札村は昔の常陸国鹿島郡にその名前がある。北浦沿いの東側。阿玉の少し南側だ。旧大洋村のようだ。
あっ! そうかこれは常陸国風土記に出てくる白鳥の説話の舞台の一つ白鳥山普門寺(鉾田市札)のことだ。
ここは無人の荒れ果てている寺でまだ行ったことがない。今度行ってみよう。
調べていると面白いことが次々出てきてきりがない。
今日も別にやっておかなければならないことがたくさんあるので、これ以上調べるのは後にしよう。
一茶日記に出てくる地名や人名もわからないものがたくさんある。
調べてみたいが・・・まあきりがないかな。
さて、東国三社(鹿島、香取、息栖)が二等辺直角三角形に並んでいることはよく知られていますが、これも西暦806年にこのような位置関係になるように、息栖神社を今の位置に移したために成立したものです。
平安時代の初期にこんなことが行われていたのですから、当時の測量の技術もかなりあったもののようです。
久しぶりに立ち寄りました。

他の二つの神社と比べると、その規模は比べ物にならないほどこじんまりしたものです。

ここが江戸時代に東国三社をめぐる信仰の対象となったことも忘れられそうです。
江戸時代には関東以北の人々は伊勢神宮参拝後に「下三宮参り」としてこの三社を巡る慣習もあったようです。

どんな順番に回っていたのでしょうか?
良くわかりませんが、「鹿島発ち」などといって、鹿島神宮から廻るという考え方もあったようです。

今回拝殿前に茅の輪が置かれていました。

さて、今回問題にしたいのはこのコンクリート製の社殿です。
何とも味気ないのです。

(拝殿裏に本殿がありますが、こちらもコンクリート製です)
この社殿は、昭和35年に火災で焼失し、3年後の昭和38年に鉄筋コンクリート造りで再建したものです。
それまでの社殿がどんなものであったのか? 調べると江戸時代の享保7年(1722年)に作られたもので華麗なものであったと書かれています。
ではその姿は? ネットで写真を探したけれど出てきませんので、戦前絵葉書を探してみました。
ありましたよ。潮来観光用の一種のようです。

これが社殿(拝殿)です。

こちらの門は今のものと同じですが、奥に見える社殿(拝殿)は違いますね。
神門は1847年製です。こちらは火事にあわなかったのです。
絵葉書では「楼門(ろうもん)」と書かれているようですが何故でしょうか?
基本的に楼門は2階建ての門ですね。それにお寺の門に多いと思います。
もっとも石岡にある善光寺の楼門は2階建てにするために材料を用意したけど1階だけ造ってやめたものだし、行方の西蓮寺は最初は2階建てだったけれど、途中で1階建てに改築したものです。それでも楼門と言っています。
いろいろありますね。

息栖神社の前の川にはこのような帆掛け船が・・・
「息栖神社は、天界の神舟が舞い降りる津」(津は港のこと)というイメージはわきません。
そういえば吉田松陰が水戸から銚子に行くときに、鹿島から潮来へ出て潮来から船に乗り、息栖に立ち寄って食事をとり、銚子手前の松岸へ着いたのは夜遅かった。当時松岸は遊郭があってにぎわっていた。
夜遅かったのも、帆の風待ちのためだと思うので帆かけ船だったと思う。
小林一茶が七番日記の文化14年(1817年)の5月に鹿島から潮来へ出て1泊し、潮来から船で卯上刻(朝5時~6時)に出発しています。 一茶は55歳でした。
潮来(板久)の俵屋(宿)の宿賃が150文、潮来から銚子への船賃が264文です。
銚子についたのは未下刻ですから午後2時~3時ころですね。 この船賃264文は現在では8000円くらいのようです。
結構時間がかかっていますので、松陰と同じように、この息栖あたりで降りてのんびりと食事でもしたのではないでしょうか?

こうしてネットで探してみるといろいろなものがわかるものですね。
潮来や息栖、それに銚子あたりのことを調べているとこの一茶の7番日記も時々出てくるのですが、私にとってはその前に立ち寄っているところも気になりますね。
・5月22日(晴)竜ヶ崎から女化原を通って土浦へ 稲市村近江屋弥五右衛門宅で1泊
・5月23日(晴)高浜で本間松江に会い、小川の今出屋惣八宅に1泊
・5月24日(晴)小川の本間家(医師)のところに1泊
・5月25日(晴)小川から4里離れた(北浦近くにある)化蘇沼稲荷神社に馬で送ってもらう。帆津倉(行方市三和、北浦)に1泊
・5月26日(晴)川(北浦)を越え、札村の普門寺へ。そこから鹿島詣でをして 大船津から舟で潮来側へ。
この札村は昔の常陸国鹿島郡にその名前がある。北浦沿いの東側。阿玉の少し南側だ。旧大洋村のようだ。
あっ! そうかこれは常陸国風土記に出てくる白鳥の説話の舞台の一つ白鳥山普門寺(鉾田市札)のことだ。
ここは無人の荒れ果てている寺でまだ行ったことがない。今度行ってみよう。
調べていると面白いことが次々出てきてきりがない。
今日も別にやっておかなければならないことがたくさんあるので、これ以上調べるのは後にしよう。
一茶日記に出てくる地名や人名もわからないものがたくさんある。
調べてみたいが・・・まあきりがないかな。
さて、東国三社(鹿島、香取、息栖)が二等辺直角三角形に並んでいることはよく知られていますが、これも西暦806年にこのような位置関係になるように、息栖神社を今の位置に移したために成立したものです。
平安時代の初期にこんなことが行われていたのですから、当時の測量の技術もかなりあったもののようです。
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