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茨城の難読地名(その1)-随分附(笠間市)

 本ブログでも時々、気になる地名などがあると、それを考察したりして書いてきましたが、少しまとめておきたくなりました。
今回新たにカテゴリに「茨城の難読地名」を追加して時々書いていきたいと思います。
更新の頻度はまだ未定ですが、これを完成するのはかなり大変そうですのでのんびりいきましょう。

まず、第1回目は「随分附」です。

随分附 【なむさんづけ】 笠間市(旧友部町)

この漢字はなかなか読めないですね。
いったいどんなところから名前がつかられているのでしょうか?
これがさっぱり判らないという代表的な地名かもしれません。

<角川日本地名大辞典>
地名の由来については、目下の者に自分の身分に随って、そのつとめを果たすように申し付けるという意味で、「なふさつ」が転訛したもの(新編常陸国誌)

と説明にはあり、これが現在の正式な見解のようです。

新編常陸国誌というのは、江戸時代の初めに徳川光圀(黄門さん)がまとめた『古今類聚常陸国誌』をもとにして、これを補うために江戸時代の後期の国学者「中山信名(なかやま・のぶな)」がまとめた歴史書ですが、中山信名の死後に、土浦の学者「色川三中(いろかわみなか)」などが追加や訂正などをして完成しています。

しかし、笠間市でもこの説明だけではよく理解できず、「アイヌ語説」「仏教語説」などもあるという言い方をしています。

「随分」とは「ずいぶん」と読みますよね。
この現在使われている意味は「はなはだ」「非常に」など限度を超えていることの表現に使われます。

しかし、本来の意味は「分(ぶん)に随う(したがう)」という意味で、身分相応という意味でしたが、これが、「身分や自分の出来る範囲で十分に」などの意味となって、現在の意味になったと考えられています。

この意味がわかると、新編常陸国誌などに書かれた意味もなんとなくわかってきます。
でもまだスッキリしませんね。それはこの身分に応じてというけれど、「何故この場所にそんなことばが発生したのか?」ということがまったく説明に無いためです。

でも、江戸時代の学者先生もたぶんわかっていれば書いていたでしょうから、きっとよくわからないでいたのでしょう。

では、私がこれを判るかといえば、これはとてもわかりません。
ただ「随分」が現在の意味に成ったのは鎌倉時代頃のようですので、それ以前の奈良、室町時代の頃、またはその前から使われていた地名なのでしょう。
その時代にこの地にどのような身分の人が住んでいたかがわかれば、きっとこの意味も理解できるような気がします。

少し視点を変えて、まわりの地形やその他の地名などに何かヒントは無いでしょうか?
「随分附」の場所を地図で眺めてみました。場所は常磐高速道と北関東道とが交差する「友部ジャンクション」の少し北側です。

近くを涸沼川(ひぬまがわ)の支流である「枝折川」が流れており、この川沿いの低地が広がる肥沃そうな場所一帯が「随分附」と呼ばれている地域です。
この「枝折川」は一級河川で「しおりがわ」と読みます。
Webの辞書では「えだおれがわ」と呼び名が書かれていますが、これはおかしいと思われます。

昔、道の別れ道などに折った枝を置いて、帰るときの道しるべなどにしていました。
これが「枝折」で、本にはさむ「しおり(栞)」の語源と成っています。
新潟の只見湖ちかくにある「枝折峠」は「しおりとうげ」と読みます。
その他にも「枝折山」などの名前も各地にあり、ほとんどが「しおり」と読ませています。

さて、じっくりと地図を見ていると気になる地名が近くにたくさん散見されます。
この涸沼川と枝折川」が合流するあたりに「長菟路(ながとろ)」「仁古田(にこだ)」「土師(はじ)」「安居(あご)」「押辺(おしのべ)」などです。

この「安居(あご)」には古代の官道の駅家(うまや)が置かれていました。
石岡(常陸国府)の鹿の子(かのこ)遺跡の場所から、水戸市の那珂川沿いにある「渡里(わたり)、長者山(ちょうじゃやま)」まで古代の官道がまっすぐにつながっていました。この途中にある馬を常時置いていた駅家(うまや)が恐らく涸沼川の川近くにあったと考えられています。

また水戸から筑波山への参拝街道として「瀬戸井街道」が知られていますが、この道は現在の県道30号線(岩間街道)のルートとほぼ同じ処を通っており、この随分附にも宿場がありました。
この随分附と岩間との間に「土師(はじ)」という地名があるのですが、これが何か「随分附(なむさんづけ)」にかかわっているような気がします。

「土師器(はじき)」ということばがあるように、これは昔の素焼きの土器で、この土器を焼く人たちのことを一般に「土師」と表記していたと考えられます。
でも「土師」は元を辿れば、古代豪族の名前で、古墳時代(4世紀末~6世紀始め頃)に古墳を築造したり、この古墳に入れる装飾品をつくる身分の氏族に与えられた名前です。

また、この土師器が作られていたのは、古墳時代から鎌倉時代の前、すなわち平安時代頃までだったようです。
これは「随分(なふさ:なむさん)」が「身分に随って」というような意味に使われていた時代に近いように思います。

古墳時代には近くに「ナムサン付遺跡」があります。

さて、近くの地名の「仁古田(にこだ)」ですが、参考になるのが、東京の西武池袋線に「江古田(えこだ)駅」があり、すぐ近くの中野区側の「江古田(えごた)」という地名です。
「えごだ」という響きが古臭いので、駅名は「えこだ」に変えたものと思いますが、この名前は、おそらく川の上流や中流で、あまり流れがなく湿地帯になっている場所についた名前だと感じています。

かすみがうら市の神立には「江後田(えごた)」という地名もあり、ここは霞ヶ浦に注ぐ「菱木川」の最上流の場所です。

また、もう一つの「長菟路(ながとろ)」地名ですが、土浦の高津貝塚遺跡で説明を受けた時に頂いた「古代の道」という冊子では、この「長菟路」は、この古代官道にちなんだ名前と書かれており、石岡の小目井跡に近い場所に同じような名前を見つけて古道を推論されていましたが、こちらは、「長瀞、長戸呂、長土呂、長渡呂、長淀、長外路、長戸路・・・」などと漢字が違うが同じ読みの地名がたくさんあり、私としては、この名前は、川の流れが緩やかになり材木などを流した時のたまり場所になったところと解釈しています。

秩父の長瀞などは観光名所で渓谷美と急流を下るライン下りの場所を思い浮かべますが、多分その途中の流れが穏やかになって広くなったところを示す言葉だと思っています。

また「押辺(おしのべ)」だが、これは「押戸」などと同じで川に舟を押し出す場所という意味ではないかと考えています。

これもあくまで私の推論を含めた参考にしか過ぎません。

(関連地名)
・長菟路(ながとろ)
・仁古田(にこだ)
・安居(あご)
・土師(はじ)
・押辺(おしのべ)

茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/06/28 11:18
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