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茨城の難読地名(その25)-手子生

難読地名25

シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

手子生 【てごまる】 つくば市豊里地区

 地元の説明では、地元にある鹿島神社が名前の由来に関係しており、
「この手子生鹿島神社は創建不詳だが、1603年に手子生城主・菅谷範政が祭神不詳だったため、武甕槌神を祀ったとされる。
地元では、手の子明神として親しまれており、御神体は木彫りの手首。
伝承では、その昔、手子生村に住んでいた若い夫婦は、夫の留守中、その妻が村の若い衆のいたずらに遭わないように、 夫婦の隣に住む爺さんが、毎晩妻の身体に手を当てて守ってやったら、いつしか妻は妊娠し、 生まれた男の子は、稀に見る秀才で、成人して立派な功績を残したことから、後世その徳を慕って一社を建立して末代までの守り神とした。
「手を当てて子が生まれた」ということから手子神社と呼ばれた」
これが地名の由来とされる。 とある。

しかしこれはこの「手子生」の漢字から後から作られた話である可能性が高い。

なぜなら、手子后神社という名前の神社は各地にあり、このような話は伝わっていない。

まず、神栖市波崎には、手子后(てごさき)神社は、常陸国風土記に記載のある「童子女の松原伝説」に登場する
海上の安是(あぜ)の嬢子(いらつめ)=手子比売命(てごひめのみこと)を祀っている。

この手子后神社という名前の神社は、この地のほかに茨城県には石岡市中津川、水戸市元石川町、水戸市田島町、城里町上圷にあります。

やはりこの地名の元となっているのが 手子后神社の「手子比売命(てごひめのみこと)」が関係ありそうだ。
この神様は一説では鹿島神宮の神の娘とも言われます。

「鹿島神宮伝記」によると・・・「本社の巽(たつみ)に当り、天宮社あり、手子后と申し、大明神の女と申す。天降る神の乙女は世にもまた、雲の通い路行(ゆき)返らむ」とある。

すなわち、「海上(うなかみ)の安是(あぜ)の嬢(いつらめ)」=「手子后」=「天宮」となる。

この神をたどると、日本に渡来した倭人のルーツであり、中国華南の「海上(うなかみ)の安是(あぜ)の嬢(いつらめ)」である「娘馬(ノーマ)神」に行き着くという。

こんな話が元になっているとすると鹿島の神のルーツもわかってくるかもしれません。

ただほとんど残されていない神様ですのでルーツをたどるのはかなり困難ですね。

茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/14 17:08
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