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茨城の難読地名(その32)-大足、足崎

難読地名32

シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

大足 【おおだら】水戸市
足崎 【たらざき】 ひたちなか市


<大足【おおだら】>

大足(おおだら)地名は関東各地にたくさん存在する。
ここ水戸市(旧内原町)大足について、平凡社「茨城県の地名」には「大足の地名は関東に広く分布するダイダラ坊の伝説に由来し、その住した所と伝える」と書かれている。

この地の伝説は「常陸国風土記」の那賀郡のところに出てくる大男の話が元になっており、風土記には「大櫛といふ名の岡がある。昔、大男がゐて、岡の上に立ったまま手をのばして海辺の砂浜の大蛤をほじって食べた。その貝殻が積もって岡となった。大きくくじったことから、大櫛の岡の名がついた。大男の足跡は、長さ四十歩以上、幅二十歩以上で、小便の跡の穴は、直径二十歩以上ある。」と書かれている。
この大男がダイダラ坊の伝説を生み、その足跡が「大足」となったといわれる。
そのため、ダイダラ坊が住んでいたところが大足で、実はこの地がクレフシ山(現朝房山)があるために、朝は日陰となって人は朝寝坊であり、また作物も良く育たなかった。住民のこの嘆きを聞いたダイダラ坊は山を北の方向に移動させたのだ。
ところがダイダラボウが山を動かした跡に大きな水たまりができてしまい、雨が降るとその水たまりが溢れ、村が水びたしになるようになってしまった。そこでダイダラボウはその水たまりから排水するため、指で大地を割いて川をつくり、その下方に沼を一つつくった。その沼がいまの千波湖であるという昔話もできた。

ただ、大足という地名は小字地名ではたくさんあって、ほとんどのところが窪地のような地形のところにつけられた名前である。
これは昔の製鉄(砂鉄)跡ではないかと言われている。タタラ製鉄の跡のような場所に地名がつけられ「足」を「タラ」「ダラ」などと読んだのではないかと推察されます。

八郷町(現石岡市)の地名を集めた「八郷の地名」の中には、柿岡地区の小字に「大足(おおだら)」があり、「ダラ」は「タレ」で大きな凹の意か」と書かれている。また八郷町の太田地区にも「大足」「大足山」「大足前」という地名が残されている。
ここには、大男が足を踏ん張ったところが「大足前」で腰かけたところが「大足山」だという伝説がある。


<足崎 【たらざき】>

 郵便番号簿の住所を検索しても全国に「足崎」という地名は無く、「たらざき」と読ませる地名も見つからない。
地元「市報勝田」には昭和53年12月の記事でこの足崎が紹介されている。

それによると、佐和の上稲田が、竹篭などの特産地であったのに対し、足崎(たらざき)は篠で編む笊(ざる)の特産地として、近郷近在に知られていました。とある。
江戸時代にはこの篠細工が始められていたらしく、大半の家では農閑期、あるいは、夜業仕事として、笊などを作っていたと書かれています。また材料の篠は、おもに米崎(那珂町)、常陸太田の在辺りから買い入れ、笊を作るときの行程も分業化されていたと言われています。

足崎の地名の由来については、「日本地名辞書」からは、足崎の同一地名はみあたりませんが、大良、多艮、良川、足田の地名は福井、秋田、山口、佐賀の各県にみられます。一般にこれらの地名は、谷津が入り組んだ丘礁地上の平垣地を意味するともいわれています。とあります。

足崎には縄文時代の遺跡も残されており歴史の古い地域で、鎌倉時代には、常陸大椽の一族、吉田里幹が城を築いて住み、「多良崎氏」を名乗っています。
鎌倉期には「足崎」ではなく「多良崎(郷)」と呼ばれていたようです。

茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/19 06:24
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