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茨城の難読地名(その35)-大甕

難読地名35

シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

大甕 【おおみか】 日立市

「大甕」は鉄道駅名や神社名などに使われ、住所表記は「大みか」である。
「甕」は「みか」とも読むが、一般にはこれだけなら「かめ」である。

甕(かめ)は、土器、陶器の一種で、貯蔵、運搬、発酵、化学反応に用いられる容器と辞書にはある。
また、この字は、弥生時代中期に北九州、山口県地方を中心に埋葬のために遺体を納める容器として甕が使用され、甕棺(かめかん)として知られるとも書かれている。すなわち大きな甕(かめ)は大人の埋葬用の棺甕ということになる。

また、神にささげる酒や食べ物などを入れた甕(かめ)も大甕と呼ばれたようだ。

ではここの日立市の「大みか」はどんなところなのだろうか。
この地名が付いたのはここに「大甕倭文神社(おおみかしずじんじゃ)」があるからに他ならない。

常陸国一宮の鹿島神宮に行くと、入口の随神門(ずいしんもん)を入ると、拝殿は右側にあるが、正面に小さな祠「高房社」がこちらを向いて建っている。
この高房社は鹿島神宮の摂社の一つで、現地の説明には「武甕槌(タケミカヅチ)大神の葦原中国平定に最後まで服従しなかった天香香背男(アメノカカセオ)を抑えるのに大きく貢献した建葉槌(タケハヅチ)神が御祭神です。 古くから、まず当社を参拝してから本宮を参拝する習わしがあります。 」と書かれています。

これがどういう意味かというと、鹿島神宮の武神「武甕槌(タケミカヅチ)」は、ヤマト朝廷の勢力を北へ拡大していたのですが、この日立地方に住む「天香香背男(アメノカカセオ)」という星を信仰する蝦夷(エミシ)が強く、抵抗も大きかったのでなかなか征圧できなかったのです。
そのため、建葉槌(タケハヅチ)に命じて、この天香香背男(アメノカカセオ)を退治させたのです。
この大甕神社にはこの建葉槌(タケハヅチ)命と退治された天香香背男(アメノカカセオ)の両方を祭っています。
天香香背男は宿魂石という大岩に閉じ込められています。(岩山の上に祠が祭られています)

またこの建葉槌命は常陸国二宮である静神社にも祭られています。

現在国道6号線は久慈川を過ぎるとこの大甕の山にぶつかります。道路は山を削り、この山にあった大甕神社を東西2つにに分けてしまいました。

 この歴史的な言い伝えを信じるとして、この「大甕(おおみか)」という地名の由来を見てみましょう。

日立市の説明によれば、この「大甕」は、神と人の住む境界として「大甕」が埋められていたか、あるいは「大甕」をおいて祭祀が行われた地であったと考えられます。となっています。

はたしてそうでしょうか。

現在の郵便番号住所で「大甕」という地名は下記があります。

 福島県南相馬市原町区大甕(おおみか)


日立市の説明は志田諄一氏の「大甕という地名について」(『日立史苑』第4号)に記された内容が基になっているようです。

では、その説明を以下に記します。

<「甕」の使用例>
(1)祈念祭の祝詞に「大甕に初穂を高く盛り上げ、酒を大甕に満たして神前に差し上げて、たたえごとを言った」とあります。
(2)「播磨国風土記」に丹波と播磨の国境に大甕を埋めて境としたとあります。
これらの例から、大甕(おおみか)は、酒を入れた器で、神事に使われ、また何らかの境界に埋められることもあったことが知られます。
<大甕と神社>
「常陸国風土記」や「播磨国風土記」には、山の峰に住む神と里に住む人との境界(山口・山本)に社(やしろ)が建てられた話がみられます。
大甕の地も、風の神山・真弓山へとつづく多賀山地の南端のふもとにあたります。まさに山口にあたるこの地に大甕神社があります。
なお、現在の南相馬市原町区に大甕があります。この大甕に延喜式内社に比定される日祭神社があります。この神社の由来は、日本武尊東征の際、平定を祈願してこの地に天照大御神を勧請したといい、大甕という地名は、祈願の際に祭壇にささげられた酒をもった器にちなんだといわれています。
<大甕の由来>
以上のことから、大甕は、神と人の住む境界として「大甕」が埋められていたか、あるいは「大甕」をおいて祭祀が行われた地であったと考えられます。

<従来の説>
(1)甕星神説(大甕倭文神宮社記)「常陸風土記に曰く、大甕は甕星神の居所の土地なり。故に大甕と称す」
→ 現伝本の「常陸国風土記」には、大甕や甕星神の記載がなく、根拠がない。
(2)天津甕星説(大甕倭文神宮社記)「当社縁起に曰く、建葉槌命は天神の勅をこうむり、天津甕星を誅して倭文郷に鎮座す」。ゆえに大甕倭文神宮といった。
→ 倭文郷は、現在の茨城県那珂市静の地をさす。天津甕星は「日本書紀」にみえる神であるが、大甕とはなんら関係がない。(3)甕星香々背男(みかぼしかがせお)説(宮田実『大甕より久慈浜あたり』)「大甕の地は先住民族として古典に載ることころの甕星香々背男と称する強賊の占拠していたところであったために伝えて此処を大甕と称すると云われている」
→ 甕星香々背男と大甕を結びつけるものはなにもない。

と従来説や神社に伝わる話を否定しています。しかし、常陸国風土記が書かれたのは8世紀初めであり、この地の蝦夷人と戦ったのは4~5世紀のころと考えられます。
ヤマト朝廷が蝦夷人たちのことを土蜘蛛などと呼び、自らの歴史からは消し去っていますので日本の歴史はこの大和朝廷が仙台の多賀城やこの常陸国を征圧した後に確立したものしか書かれたものはありません。
その前の伝説を数百年あとの時代の勝者が好きに書いた内容だけが正しいと言えるのでしょうか。
地名には明らかにそれ以前の蝦夷人、縄文人たちの言葉が伝えられたものがたくさんあるのです。
皆さんはどうお考えでしょうか?

私はこの神社に伝わる伝説的な話にある程度の信ぴょう性を感じてしまいます。



茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/20 17:07
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