茨城の難読地名(その37)-於下、次木(行方)
行方市の少し読みにくい地名2か所です。

シリーズ1回目からは ⇒ こちら
於下 【おした】 行方市
次木 【なみき】 行方市
<於下>【おした】
この地名は読みにくいと思いますが、「於」は「於いて」であり「お」と読みますので「おした」も読めそうです。
でも「於」も「於いて(おいて」としてしか使われませんので、地名などに使われると読みに窮してしまいます。
場所は玉造と麻生の中間の霞ケ浦湖岸の地区です。
小高に近く、中世の行方四頭の一人「小高氏」の居城があった山の下です。
名前の由来は特に書かれているものがなく不明ですが、角川日本地名大辞典によると、中世以来水上交通の要所とされたという。また縄文時代の「於下貝塚」があると書かれています。
名前の由来を探るために全国の住所から「於」と名が付く地名を探してみました。
茨城県行方市於下(おした)
千葉県山武郡横芝光町於幾(おき)
富山県富山市於保多町(おおたまち)
山梨県甲州市塩山上、下於曽(かみ、しもおぞ)
静岡県浜松市浜北区於呂(おろ)
愛知県一宮市大和町於保(おほ)
京都府綾部市於与岐町(およぎちょう)
大阪府岸和田市神於町(こうのちょう)
山口県美祢市於福町上、下(おふくちょうかみ、しも)
高知県四万十市中村於東町(なかむらおひがしちょう)
宮崎県西都市都於郡町(とのこおりまち)
鹿児島県曽於市(そおし)
鹿児島県曽於郡(そうぐん)
鹿児島県大島郡瀬戸内町於斉(おさい)
ほとんどの地名が「お」と読みます。この中で最も特徴がある大きな地名が、鹿児島県の曽於郡、曽於市(そおし)です。
この名前の由来はこの地が大和朝廷に最後まで抵抗した熊襲(くまそ)が住んでいた場所で、この曽於(そお)の名前はこの熊襲によるのではないかと言われていることです。
実はこの行方の地は大和朝廷が東国に進出したときに抵抗勢力も多くいて、進出が最も遅れた地域です。
そのため、8世紀初めに書かれた常陸国風土記には行方の地名として「手鹿(てが)」「男高=小高(おだか)」などがすべて、この地にいた「佐伯(さえき)」(「国栖:くず」などと同様にヤマト朝廷に対してさえぎる人々という、もともとこの地に住んでいた現地人)の名前から地名になったと書かれています。
小高(男高)が佐伯の名前ですので「於下」も同様に「男下」で佐伯の名前かもしれません。
また鹿児島の「曽於(そお)」と同じ意味合いで「於」が使われたとすると「於下」の「於」そのものに佐伯や国栖のことを指す語の意味が含まれているのかもしれません。 「於」=「男」=「小」
<次木>【なみき】
場所は玉造から鹿行大橋に向かう国道354号線沿いの両宿、武田の里の少し西側(旧道)です。
この街道は昔の街道筋にあたり、街道並木が続いていたといいます。
そのため、「並木」が続いているので「次木」で「なみき」と読ませたのではないかと考えられます。
次木村は江戸期から見られる地名ですが何時から使われているのかは不明です。

シリーズ1回目からは ⇒ こちら
於下 【おした】 行方市
次木 【なみき】 行方市
<於下>【おした】
この地名は読みにくいと思いますが、「於」は「於いて」であり「お」と読みますので「おした」も読めそうです。
でも「於」も「於いて(おいて」としてしか使われませんので、地名などに使われると読みに窮してしまいます。
場所は玉造と麻生の中間の霞ケ浦湖岸の地区です。
小高に近く、中世の行方四頭の一人「小高氏」の居城があった山の下です。
名前の由来は特に書かれているものがなく不明ですが、角川日本地名大辞典によると、中世以来水上交通の要所とされたという。また縄文時代の「於下貝塚」があると書かれています。
名前の由来を探るために全国の住所から「於」と名が付く地名を探してみました。
茨城県行方市於下(おした)
千葉県山武郡横芝光町於幾(おき)
富山県富山市於保多町(おおたまち)
山梨県甲州市塩山上、下於曽(かみ、しもおぞ)
静岡県浜松市浜北区於呂(おろ)
愛知県一宮市大和町於保(おほ)
京都府綾部市於与岐町(およぎちょう)
大阪府岸和田市神於町(こうのちょう)
山口県美祢市於福町上、下(おふくちょうかみ、しも)
高知県四万十市中村於東町(なかむらおひがしちょう)
宮崎県西都市都於郡町(とのこおりまち)
鹿児島県曽於市(そおし)
鹿児島県曽於郡(そうぐん)
鹿児島県大島郡瀬戸内町於斉(おさい)
ほとんどの地名が「お」と読みます。この中で最も特徴がある大きな地名が、鹿児島県の曽於郡、曽於市(そおし)です。
この名前の由来はこの地が大和朝廷に最後まで抵抗した熊襲(くまそ)が住んでいた場所で、この曽於(そお)の名前はこの熊襲によるのではないかと言われていることです。
実はこの行方の地は大和朝廷が東国に進出したときに抵抗勢力も多くいて、進出が最も遅れた地域です。
そのため、8世紀初めに書かれた常陸国風土記には行方の地名として「手鹿(てが)」「男高=小高(おだか)」などがすべて、この地にいた「佐伯(さえき)」(「国栖:くず」などと同様にヤマト朝廷に対してさえぎる人々という、もともとこの地に住んでいた現地人)の名前から地名になったと書かれています。
小高(男高)が佐伯の名前ですので「於下」も同様に「男下」で佐伯の名前かもしれません。
また鹿児島の「曽於(そお)」と同じ意味合いで「於」が使われたとすると「於下」の「於」そのものに佐伯や国栖のことを指す語の意味が含まれているのかもしれません。 「於」=「男」=「小」
<次木>【なみき】
場所は玉造から鹿行大橋に向かう国道354号線沿いの両宿、武田の里の少し西側(旧道)です。
この街道は昔の街道筋にあたり、街道並木が続いていたといいます。
そのため、「並木」が続いているので「次木」で「なみき」と読ませたのではないかと考えられます。
次木村は江戸期から見られる地名ですが何時から使われているのかは不明です。
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