茨城の難読地名(その38)-三箇、栗又四ケ、入四間など
茨城にも数値が地名に使われているものもかなりある。その中から比較的読みにくい地名を集めてみた。

シリーズ1回目からは ⇒ こちら
三箇 【さんが】 小美玉市
栗又四ケ 【くりまたしか】 小美玉市
入四間 【いりしけん】 日立市
○ 小美玉市三箇 【さんが】
・・・「さんこ」でなく「さんが」と読む。これは全国に同じ地名が多数あるがほとんどどれも「さんが」である。
これは3ケ所の村が一緒になって「三箇村」となり、この読みが「さんがむら」というのが発音しやすかったからで、村がとれても「さんが」が残ったものと解釈される。
<全国の三箇地名>
茨城県小美玉市三箇(さんが)
栃木県那須烏山市三箇(さんが)
埼玉県久喜市菖蒲町三箇(さんが)
千葉県袖ケ浦市三箇(さんが)
新潟県中魚沼郡津南町三箇(さんが)
富山県射水市下村三箇(さんが)
富山県射水市本江三箇(さんが)
愛知県豊田市三箇町(さんがちょう)
大阪府高槻市三箇牧(さんがまき)
大阪府大東市三箇(さんが)
福岡県朝倉郡筑前町三箇山(さんがやま)
熊本県上益城郡甲佐町南三箇(さんが)
○ 稲敷市四箇 【しか】
・・・旧河内郡に江戸時代に4か所の村が合併したと思われる「四箇村」が存在した。明治22年の合併で村は「阿波村」になった時に「四箇(しか)」の地名として残った。
○小美玉市栗又四ケ 【くりまたしか】
・・・四カ所の村が合併し栗又四箇村(栗又は地元の地名、武将名)が作られ、玉里村に合併したときに大字名が「栗又四ケ」になったと考えられる。
しかし鹿島鉄道(現在廃線)の駅名は「四箇村駅」であった。
○ 下妻市五箇 【ごか】(旧千代川村)
・・・江戸時代に岡部郡に「五箇村」が存在した。江戸時代に5つに村が合併して付いた村名と思われるが、「後閑(空閑:こが)」の転訛とする説があるという。(角川日本地名大辞典)。明治22年の再編成合併で大形村に組入れられた。
柳田國男の地名の研究資料「地名考説」では、堀之内の地名について述べているところに、鹿島文書に「後閑堀ノ内」とみえ、後閑は空閑(こが)=開墾者が押さえていた土地で、堀之内は名主の垣内(かいと)と同じものであるといえる。とあります。
○ 筑西市二木成 【にぎなり】
・・・鎌倉時代に「仁木奈利郷」という郷名があった。これは太閤検地の際に真壁郷に組み込まれた。(角川日本地名大辞典)
○ 鉾田市二重作 【ふたえさく】
・・・南北朝時代から室町時代に「二重佐古村」が存在した。江戸期からの村名は「二重作村」となっている。(角川日本地名大辞典)
○ 常陸太田市三才町 【さんざいちょう】
・・・地名の由来については康平5年【1062年)源頼義の二子加茂義綱が下向の時年が凶悪であるとして当地に3年(3歳)留まったことにちなむと伝える(新編常陸)(角川日本地名大辞典)
江戸期から「三才村」との地名が見られるが、昔は「三歳村」との記述もある。
<三才、三歳 などに類似の地名>
茨城県常陸太田市三才町(さんざいちょう)
長野県長野市三才(さんさい) 、西三才(にしさんさい)
長野県松本市三才山(みさやま)
岐阜県岐阜市三歳町(みとせちょう)
愛知県名古屋市西区五才美町 アイチケンナゴヤシニシクゴサイビチョウ
愛知県小牧市藤島町五才田 アイチケンコマキシフジシマチョウゴサイデン
山形県西村山郡大江町十八才甲、乙 (じゅうはっさい こう、おつ)
○ ひたちなか市三反田 【みたんだ】
・・・貝塚や遺跡も多く早くから人々が住んでいた。古くは三多田村と称し、元禄年間頃に三反田村と改称した(水府志料)。またこの地は瓜・茄子などを多く産する所で三反田のどんたつ瓜と称され、大変大きなものが採れたといわれている。(角川日本地名大辞典)
○ 鹿嶋市根三田 【ねさんだ】
・・・地名は「さだ」の根方にいちすることに由来。「風土記」にみえる「寒田」から「根佐田」となr根三田に転じたとも言われる。(角川日本地名大辞典)
○ 稲敷郡河内町十三間戸 【じゅうさんまど】
・・・利根川中流の中州まわりにこの地名があり、茨城県河内町と千葉県香取郡神崎町に十三間戸という」地名がある。
平凡社「茨城県の地名」によると、1602年に小倉縫殿之助が開墾し、それ以降に移住者があって一村となったとある。
十三間というのは柱と柱の間の間隔という長さでいえばの 1.818m×13=23.6m になるので長い建物が存在したとも考えられる。 奈良に忍性が建てた北山十八間戸(けんと)という建物がある。これは当時らい病患者の収容施設としてつくられたもので、部屋を1間ずつ区切って18戸の部屋をつなげたものだった。
この地にも13間で仕切られた施設があったことも考えられるが、記録にはない。
また、間戸(まど) = 窓 で「窓」の語源が「間戸」という考え方もある。
<間戸と付く地名>
茨城県稲敷郡河内町十三間戸(じゅうさんまど)
千葉県香取郡神崎町十三間戸(じゅうさんまど)
福井県福井市間戸町(まとちょう)
熊本県上天草市姫戸町二間戸(ふたまど)
○ 日立市入四間町 【いりしけんちょう】
・・・「入四間」は、御岩神社があり、日立鉱山の煙害による被害を受けた地域として知られている。
地名も古くは「入四軒」と書いており、最初にこの地に入植した家が4軒だったからと地元では伝わっている。
その入植した時期については、江戸時代よりも古く、南北朝時代に北朝に敗れた南朝派の武将が、この地に逃げ込み、それが定着したとも言われる。
○ ひたちなか市四十発句 【しじゅうほつく】
・・・那珂湊町字四十発句とある。旧湊村には変わった地名が散見される。水音から付いたと思われる「沢メキ、道メキ、廻り目」などのほかに、船窪、貉谷津、ナメシ、和尚塚、十三奉行などその由来が気になる地名ばかりが並ぶ。
しかしこの四十発句の地名由来はわからない。
○ 行方市四鹿 【しろく】
・・・鎌倉期から南北朝時代には「四六村」と見える。江戸期からは「四鹿村」となった。(角川日本地名大辞典)
○ 北茨城市大津町五浦 【いづら】
・・・名称は入江が5つあったことに由来。(角川日本地名大辞典) 明治39年に岡倉天心が日本美術院をこの地に移した(六角堂)
○ 猿島郡五霞町 【ごかまち】
・・・赤堀川(現利根川)・逆川・権藤川にはさまれた川中島で、沼や湿地帯が多い場所であったが、耕作整理され水田が多くなった。明治22年に11ヶ村が合併し五霞村となった。
○ 北茨城市関本町八反 【はったん】
・・・地名は古代の条里制に由来するという。(角川日本地名大辞典) 大化の改新で施工された条里制で、これに基づいて耕地を整理し、そこに集落が形成されたところに条理集落となったと思われる地名が日本各地に存在するが、主に奈良や西日本が多い。北茨城の八反もいつの時代かは不明だが、同じように耕作地を整理しつけられた地名だと思われる。
○ 行方市八木蒔 【やきまき】
・・・時期は不明だが北の「羽生村」から分村と伝えられ(新編常陸国誌)、また南北朝時代に「やきまきのむら」という村名が見られる。この地方は橘郷(立花郷)といわれ鎌倉初期には鹿島神宮大禰宜の中臣氏が所領する地であった。

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三箇 【さんが】 小美玉市
栗又四ケ 【くりまたしか】 小美玉市
入四間 【いりしけん】 日立市
○ 小美玉市三箇 【さんが】
・・・「さんこ」でなく「さんが」と読む。これは全国に同じ地名が多数あるがほとんどどれも「さんが」である。
これは3ケ所の村が一緒になって「三箇村」となり、この読みが「さんがむら」というのが発音しやすかったからで、村がとれても「さんが」が残ったものと解釈される。
<全国の三箇地名>
茨城県小美玉市三箇(さんが)
栃木県那須烏山市三箇(さんが)
埼玉県久喜市菖蒲町三箇(さんが)
千葉県袖ケ浦市三箇(さんが)
新潟県中魚沼郡津南町三箇(さんが)
富山県射水市下村三箇(さんが)
富山県射水市本江三箇(さんが)
愛知県豊田市三箇町(さんがちょう)
大阪府高槻市三箇牧(さんがまき)
大阪府大東市三箇(さんが)
福岡県朝倉郡筑前町三箇山(さんがやま)
熊本県上益城郡甲佐町南三箇(さんが)
○ 稲敷市四箇 【しか】
・・・旧河内郡に江戸時代に4か所の村が合併したと思われる「四箇村」が存在した。明治22年の合併で村は「阿波村」になった時に「四箇(しか)」の地名として残った。
○小美玉市栗又四ケ 【くりまたしか】
・・・四カ所の村が合併し栗又四箇村(栗又は地元の地名、武将名)が作られ、玉里村に合併したときに大字名が「栗又四ケ」になったと考えられる。
しかし鹿島鉄道(現在廃線)の駅名は「四箇村駅」であった。
○ 下妻市五箇 【ごか】(旧千代川村)
・・・江戸時代に岡部郡に「五箇村」が存在した。江戸時代に5つに村が合併して付いた村名と思われるが、「後閑(空閑:こが)」の転訛とする説があるという。(角川日本地名大辞典)。明治22年の再編成合併で大形村に組入れられた。
柳田國男の地名の研究資料「地名考説」では、堀之内の地名について述べているところに、鹿島文書に「後閑堀ノ内」とみえ、後閑は空閑(こが)=開墾者が押さえていた土地で、堀之内は名主の垣内(かいと)と同じものであるといえる。とあります。
○ 筑西市二木成 【にぎなり】
・・・鎌倉時代に「仁木奈利郷」という郷名があった。これは太閤検地の際に真壁郷に組み込まれた。(角川日本地名大辞典)
○ 鉾田市二重作 【ふたえさく】
・・・南北朝時代から室町時代に「二重佐古村」が存在した。江戸期からの村名は「二重作村」となっている。(角川日本地名大辞典)
○ 常陸太田市三才町 【さんざいちょう】
・・・地名の由来については康平5年【1062年)源頼義の二子加茂義綱が下向の時年が凶悪であるとして当地に3年(3歳)留まったことにちなむと伝える(新編常陸)(角川日本地名大辞典)
江戸期から「三才村」との地名が見られるが、昔は「三歳村」との記述もある。
<三才、三歳 などに類似の地名>
茨城県常陸太田市三才町(さんざいちょう)
長野県長野市三才(さんさい) 、西三才(にしさんさい)
長野県松本市三才山(みさやま)
岐阜県岐阜市三歳町(みとせちょう)
愛知県名古屋市西区五才美町 アイチケンナゴヤシニシクゴサイビチョウ
愛知県小牧市藤島町五才田 アイチケンコマキシフジシマチョウゴサイデン
山形県西村山郡大江町十八才甲、乙 (じゅうはっさい こう、おつ)
○ ひたちなか市三反田 【みたんだ】
・・・貝塚や遺跡も多く早くから人々が住んでいた。古くは三多田村と称し、元禄年間頃に三反田村と改称した(水府志料)。またこの地は瓜・茄子などを多く産する所で三反田のどんたつ瓜と称され、大変大きなものが採れたといわれている。(角川日本地名大辞典)
○ 鹿嶋市根三田 【ねさんだ】
・・・地名は「さだ」の根方にいちすることに由来。「風土記」にみえる「寒田」から「根佐田」となr根三田に転じたとも言われる。(角川日本地名大辞典)
○ 稲敷郡河内町十三間戸 【じゅうさんまど】
・・・利根川中流の中州まわりにこの地名があり、茨城県河内町と千葉県香取郡神崎町に十三間戸という」地名がある。
平凡社「茨城県の地名」によると、1602年に小倉縫殿之助が開墾し、それ以降に移住者があって一村となったとある。
十三間というのは柱と柱の間の間隔という長さでいえばの 1.818m×13=23.6m になるので長い建物が存在したとも考えられる。 奈良に忍性が建てた北山十八間戸(けんと)という建物がある。これは当時らい病患者の収容施設としてつくられたもので、部屋を1間ずつ区切って18戸の部屋をつなげたものだった。
この地にも13間で仕切られた施設があったことも考えられるが、記録にはない。
また、間戸(まど) = 窓 で「窓」の語源が「間戸」という考え方もある。
<間戸と付く地名>
茨城県稲敷郡河内町十三間戸(じゅうさんまど)
千葉県香取郡神崎町十三間戸(じゅうさんまど)
福井県福井市間戸町(まとちょう)
熊本県上天草市姫戸町二間戸(ふたまど)
○ 日立市入四間町 【いりしけんちょう】
・・・「入四間」は、御岩神社があり、日立鉱山の煙害による被害を受けた地域として知られている。
地名も古くは「入四軒」と書いており、最初にこの地に入植した家が4軒だったからと地元では伝わっている。
その入植した時期については、江戸時代よりも古く、南北朝時代に北朝に敗れた南朝派の武将が、この地に逃げ込み、それが定着したとも言われる。
○ ひたちなか市四十発句 【しじゅうほつく】
・・・那珂湊町字四十発句とある。旧湊村には変わった地名が散見される。水音から付いたと思われる「沢メキ、道メキ、廻り目」などのほかに、船窪、貉谷津、ナメシ、和尚塚、十三奉行などその由来が気になる地名ばかりが並ぶ。
しかしこの四十発句の地名由来はわからない。
○ 行方市四鹿 【しろく】
・・・鎌倉期から南北朝時代には「四六村」と見える。江戸期からは「四鹿村」となった。(角川日本地名大辞典)
○ 北茨城市大津町五浦 【いづら】
・・・名称は入江が5つあったことに由来。(角川日本地名大辞典) 明治39年に岡倉天心が日本美術院をこの地に移した(六角堂)
○ 猿島郡五霞町 【ごかまち】
・・・赤堀川(現利根川)・逆川・権藤川にはさまれた川中島で、沼や湿地帯が多い場所であったが、耕作整理され水田が多くなった。明治22年に11ヶ村が合併し五霞村となった。
○ 北茨城市関本町八反 【はったん】
・・・地名は古代の条里制に由来するという。(角川日本地名大辞典) 大化の改新で施工された条里制で、これに基づいて耕地を整理し、そこに集落が形成されたところに条理集落となったと思われる地名が日本各地に存在するが、主に奈良や西日本が多い。北茨城の八反もいつの時代かは不明だが、同じように耕作地を整理しつけられた地名だと思われる。
○ 行方市八木蒔 【やきまき】
・・・時期は不明だが北の「羽生村」から分村と伝えられ(新編常陸国誌)、また南北朝時代に「やきまきのむら」という村名が見られる。この地方は橘郷(立花郷)といわれ鎌倉初期には鹿島神宮大禰宜の中臣氏が所領する地であった。
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