茨城の難読地名(その41)-馬渡、牛渡、戌渡、牛込、押戸

シリーズ1回目からは ⇒ こちら
馬渡 【まわたり】 ひたちなか市(旧勝田市)
馬渡 【うまわたり】 茨城町
馬渡 【まわたし】 稲敷市(旧桜川村)
戌渡 【いぬわたり】 稲敷市(旧新利根町)
牛渡 【うしわた】 かすみがうら市(旧出島村)
牛込 【うしごめ】 美浦村
押戸 【おしど】 利根町
今回あちこち歩き回っていて、どうも同じような傾向にある場所につけられたと思われる地名を集めてみました。
茨城県には現在の住所録に3箇所の「馬渡」がありました。そして、読み方が3箇所少しずつ違う。
旧小字を含めるときっともっとたくさん出てくると思われます。
<ひたちなか市(勝田市) 馬渡【まわたり】>
角川日本地名大辞典には、本郷川上流に位置する。地名は源義家が奥州遠征の途中馬を引き連れて川を渡ったことによるという伝承がある(勝田市史)とあり、国史跡の馬渡埴輪製作遺跡がある。
<茨城町 馬渡【うまわたり】>
角川日本地名大辞典には、涸沼川下流右岸に位置する。縄文時代の馬渡遺跡がある。常陸国茨城郡のうち、「まわたり」ともいう。と書かれている。この馬渡地区の隣には「駒渡(こまわたり)」という地名がある。
この駒=馬であろうから、同じ意味合いでつけられたものだろう。
<稲敷市(桜川村)馬渡【まわたし】>
角川日本地名大辞典には、南北朝期に見える地名。常陸国東条荘のうち、「馬渡津」「むまわたしの津」の記載が見えるとある。
この稲敷市の馬渡は浮島の霞ケ浦に面した入り江となっているところにある。霞ヶ浦がまだ内海で香取の海とか○○の流れ海などといわれていた時代、浮島は名前の通り陸と離れた島であった。 また潮の満ち引きで、時間によっては陸続きになったりまた島となったりしていた時代もあるという。
利根川を渡った先の香取市にある「側高(そばたか)神社」にはある伝承が残されている。 それは、常陸国から馬をつかまえて香取側に連れてくるときに、常陸国の追手が迫ってきた。 この時に側高の神がこの馬を浮島から陸続きの時に渡らせ、すぐに海面を上昇させて浮島を島にして追っ手が渡れなくしたという。
この話の常陸国の馬はどこにいた馬なのか? 常陸国風土記には「麻生」の馬が常陸国の馬だと書いてある。
ということは、この話も麻生の方から霞ケ浦(香取の海)を船で馬をのせて、この馬渡津(つ)=湊に運んだのかもしれない。
この地の「馬渡」は「まわたし」であり、馬の渡し場(湊=津)ということで良いのだと思う。
一般には、源義家伝説などがもっともらしく各地でいろいろな地名由来に語られているが、この地名伝説もほとんどが後から地名にこじつけられたものが多い。「馬渡=まわたり」についても一般的な解釈は「馬でしか渡れない湿地帯などにつけられた地名」との解釈がされている。
ただ茨城県の「馬渡」地名やその地形を見てみると、川や海(湖)を馬が渡れるような津(湊)のような役割(渡し場)をした地点につかられた名前なのかもしれない。
まあ川などでも、この地点で馬が渡れるとか、馬をのせる舟があるとかの地点ではないかという気がする。
一方、全国の人名事典を見てみると、この「馬渡」の名前の読みは「まわたり、まわた、まわたし、もうたい、もうたり、うまわたり、うまと、うまなべ、うまわた、うまわたなり、ばわたり、ばと」などと実に多彩である。
またこの人名も全国にまたがってはいるが、九州が圧倒的に多いという。
これはどういうことなのだろうか?
<全国の馬渡、牛渡、鹿渡などの地名>
山形県鶴岡市羽黒町馬渡ノ内下 (まわたりのうちしも)
山形県鶴岡市馬渡 (まわたり)
茨城県ひたちなか市馬渡 (まわたり)
茨城県稲敷市上、下馬渡 (まわたし)
千葉県佐倉市馬渡 (まわたし)
石川県輪島市門前町馬渡 (まわたり)
石川県珠洲市宝立町馬渡 (まわたり)
滋賀県長浜市湖北町馬渡 (もうたり)
兵庫県三田市馬渡 (まわたり)
兵庫県加西市馬渡谷町 (もうたにちょう)
島根県松江市八束町馬渡 (うまわたし)
福岡県大牟田市馬渡町 (まわたりまち)
佐賀県唐津市鎮西町馬渡島 (まだらしま)
長崎県諫早市馬渡町 (まわたりまち)
熊本県熊本市南区馬渡 (まわたり)
福島県双葉郡浪江町牛渡(うしわた)
茨城県かすみがうら市牛渡(うしわた)
青森県上北郡おいらせ町牛込平(うしごめたい)
茨城県稲敷郡美浦村牛込(うしごめ)
千葉県木更津市牛込(うしごめ)
千葉県長生郡白子町牛込(うしごめ)
福島県南会津郡南会津町押戸(おしど)
茨城県北相馬郡利根町押戸(おしど)
秋田県山本郡三種町鹿渡(かど)
千葉県四街道市鹿渡(しかわたし)
宮城県栗原市一迫鹿込(ししごめ)
上記の「馬渡」地名の中で、人名の馬渡発祥の地と書かれているのが、佐賀県唐津市鎮西町馬渡島 (まだらしま)だ。
馬渡島は佐賀県唐津の先の玄界灘に浮かぶ比較的大きな島で隠れキリシタンがすんでいた島として知られている。
しかし、一方ではこの島は大陸や朝鮮半島への航路に重要な島であり、その名前から「日本で最初に馬が来た島」ともいわれている。また島には「名馬の鼻」などという風光明媚な岬もある。
一方で、この島の名前は清和源氏一族(源満仲の後裔)の「源義俊」が流されてつけられたという説がある。平安時代の末期に美濃国馬渡(もうたい)庄城主の源義俊が左遷され、この地に土着し、自らを馬渡氏と名乗り、島の名前も「馬渡島」としたという。
かなり昔から日本各地には「馬渡」という地名があり、いろいろな読みが行われ、その地から興った武将が「馬渡」を名乗り、その人が移って土着した土地も「馬渡」という名前になった。というようなことが考えられます。
<かすみがうら市(旧出島村) 牛渡【うしわた】><美浦村 牛込【うしごめ】>
この2つの地名は関連があると見られています。
大昔の官道は、榎浦の津(現在の江戸崎付近?)が、下総国(現千葉県)から常陸国(現茨城県)への入口でした。
この稲敷市の榎浦の津(えのうらのつ)に上陸した官史たちは都から牛車に乗ってやってくるのですが、まだ土浦方面は湿地帯で陸続きで行くのが困難なため、霞ヶ浦を舟で渡ったようです。
このときついて来た牛が舟に載せられたか、または陸に留め置かれたかは定かではないのですが、陸を離れていく官史の舟を追いかけ、または途中で海に飛び込んで、流れ着いた先がかすみがうら市の「牛渡(うしわた)」で、牛を押し出した場所が美浦村の「牛込」だといわれています。牛渡にはこの牛が死んで流れ着き、これを埋葬したという「牛渡牛塚古墳」があります。
これも伝承話ですが、興味深い話だと思います。
<利根町 押戸【おしど】>
現在この利根町と隣の龍ヶ崎市は陸続きですが、大昔は間に大きな川がありました。
また古代には主要街道はこの利根町を経由して舟で対岸に渡っていたようです。「押戸」地名はこのように舟を押し出す地につけられた地名だと考えられています。
同じような小字地名が散見されます。
「鹿渡」などという地名も同じような考え方でつけられたものでしょう。
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