茨城の難読地名(その43)-正上内

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正上内 【しょうじょううち】【しょうじょうじ】 石岡市
郵便番号簿の読みは「しょうじょううち」であるが、「石岡の地名」の本では「しょうじょうじ」と振り仮名がふられている。
「石岡の地名」(石岡教育委員会編)には名前の由来として2つの説が書かれている。
(諸説1)
特にこれと言った寺や神社もなく、庄内の高い部分にある村という意味ではないか。
庄内とすれば誰の領内か、北の谷に長者塚あれば長者の領内か定かでない。
(諸説2)
ここに兵力をあずかる小掾(しょうじょう)が配置されていたと考えられる。「小掾内」が「正上内」に転訛したものではなかろうか。ここに石岡北方の不備を補うために、兵力担当の常陸小掾が、相当の兵力を率いて常駐していたという想定は、決してあたらないとは言えまい。将門時代、常陸小掾藤原玄茂が駐屯し、将門の石岡攻撃に策応して参加したものであろう。
(赤木宗徳「将門地誌」)
まあ、最初の説は漢字の地名をそのまま考えただけのこと。 この2番目の常陸小掾(ひたちしょうじょう)がいたということは、明らかではないがかなり説得力を持っている。
常陸国は大国に分類され、大国には「大掾(だいじょう)」と「小掾(しょうじょう)」が置かれていました。
大掾は権力を持ち、東国に土着した平氏の平国香(たいらのくにか)以来、次第に世襲となり、「大掾氏」となりました。
役職が名前になった非常に珍しい例です。
この常陸国の国府であった現在の石岡に大掾氏以外に小掾(しょうじょう)がいたことになります。
常陸大掾であった国香は筑波山の向こう側の現筑西市東石田あたりに屋敷を構えていたとされていますが、常陸小掾がどこに住んでいたのかなど何もわかっていません。
しかし、この平将門が常陸国国府を襲った時の様子は「将門記」に書かれています。
国府(石岡)の奥州方面の入口であったこの「正上内」地方に、この小掾を配して、国府の護りとさせていたものとの考え方はあったとしても不思議ではないでしょう。
しかし将門記では、この時の常陸小掾(ひたちしょうじょう)(単に常陸掾ともいう)であった藤原 玄茂(ふじわら の はるもち)は将門の国府襲撃の際には将門の味方になり、将門の重要な将軍の一人となっています。
国府を守る兵士の数は3000人。攻める側の将門の軍勢は1000人。 でもあっという間に国府は将門に奪われてしまったのです。
しかし、将門が討たれると、藤原 玄茂も敗走して相模国で討ち死にしています。
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