茨城の難読地名(その50)-関本肥土

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関本肥土 【せきもとあくと】 筑西市(旧関城町)
角川日本地名大辞典では、「本郷ともいう。鬼怒川中流左岸に位置する。肥土は川沿いの肥沃な低地の意。」とある。
関本肥土村は江戸期の常陸国真壁郡にあった。
またこの関本だが、平凡社の茨城の地名では、「古代には常陸国の最西端の要地として新治関が設置したと考えられる。」と書かれており、この関の中心だったと思われます。
江戸時代には関本村がいくつかに分離し、上、上中、中、分中、肥土、下などになり、肥土(あくと)は本郷とも呼ばれました。
この地域は肥沃でかなり大きな村でしたが、鬼怒川の氾濫も多く被害も多かったようです。
この「肥土(あくと)」ですが、これについては柳田國男の地名の研究に全国の「アクツ、アクト」などの地名が調べられています。
これによると、阿久津は常陸国志巻三、那珂郡常石郷の条に、「阿久津は常陸の俗に低き地をさして呼ぶ名にて、多くは川に添ひたる所なり」とかかれているものを引用し、圷の漢字もハナワを塙と書くのと同様に、共に近世和製の合意文字であらう。としています。
また、阿久津、圷の地名は関東の限られた県(茨城、千葉など)に多く見られ、その他の県では、「阿久戸、悪途、悪土、悪田、安久田、悪太原、芥川」などの地名を挙げて考察をしています。
「悪」の字が使われた経緯については、昔は水害頻繁におき、耕作には適しない地であったためにつけられたが、次第に堤防の術も進み、排水も行われ、交通も便がよくなり人々が集まりだしたのではないかと書かれています。
関本肥戸(あくと)も、古代は悪戸などと同じ川沿いの低地で耕作には適していなかったが、次第に交通の要でもあり、堤防・排水技術などで逆に耕作に適した地に成っていたことから「悪土 ⇒ 肥土」と書く様になったものと思われます。
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