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霞ヶ浦の渡し舟

 かすみがうら市の旧出島の先端(田伏)から対岸の行方市玉造までの「霞ヶ浦大橋」が完成したのは昭和62年(1987)だった。
この橋も地元の念願が叶い実現し、当初は有料の橋だった。
当初計画よりも早く採算が取れて、当初の計画を前倒しにして、2005年(平成17年)に無料になった。

この橋が完成した昭和62年春まで、下の地図で白い破線で示した区間を船が運航されていた。
(常陽リビング記事: ⇒ こちら 
(なめがたヒストリー 【霞ヶ浦大橋 その歴史と変遷】: ⇒ こちら )

霞ヶ浦大橋2

この浜と柏崎を結ぶ定期船(出島丸?)は高校生も通学で使っていたそうだ。
この場所の先にそれぞれ「素鵞神社」が残されており、恐らく明治始めまでは「天王社」であったのだと思う。
行方市、小美玉市にはこの素鵞(そが)神社結構多い。

昨日載せた「乳房稲荷神社」の場所も記しておいた。
両素鵞神社については明日にでも載せておきたいと思う。

今日はこの桟橋のあたりと思われる場所を訪れたので写真をUPしておきたい。

まずは出島地区の柏崎の桟橋付近

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ここは今もモータープールとして利用されているようだ。

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何艘かの舟が留まっていた。

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ではそこから霞ヶ浦大橋を渡って玉造に向かう。

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行方市浜の桟橋は現在のモータープールのようなところを考えてみたが、もう少し北側にある桟橋であったかもしれない。


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霞ヶ浦ふれあいランドのタワーがよく見える。
大橋が出来た時に水の遊び場として造られた。

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このタワーの近くから大橋が始まっている。

行方ヒストリーの記事に、この橋ができる当時の記録がある。
ここに高浜入りの干拓事業計画の話が載っていた。

以下記事の一部を抜粋させていただきます。

-----------以下抜粋-------------------
【高浜入干拓事業】
干拓

実は現在の霞ヶ浦大橋のある場所のあたりは干拓される予定でした。
昭和35年には農林省が計画を発表し、昭和42年には高浜入干拓建設事務所が旧玉造町に設置され工事の着工が決定されました。

この頃の日本は米を増作させる方針であり、八郎潟などの干拓工事を行っていた時期でした。この干拓はちょうどその流れに高浜入も入ったということなのでしょうね。

しかし工事の着工は決定したものの時代の流れが変わり、米の増産は減反へと転じており、昭和48年にはオイルショックもあり、この高浜入干拓事業は昭和53年に中止になりました。

この干拓事業と平行して多くの論議をよんだ事が霞ヶ浦架橋計画です。
埋め立てて繋げるのか。橋を架けて繋げるのか。この論議が激しかった時代がしのばれます。
------------抜粋 ここまで-----------------------

このような今としては馬鹿げた干拓計画が立てられ、極端な話では霞ヶ浦を全部埋めたってしまえ!なんていう話も出たことがあったそうです。
そしてその埋め立ての土には筑波山を削ればいいなどという無茶なことも平気で議論されたそうですので恐ろしいことです。


霞ヶ浦周辺の田んぼでは今年は早くて、すでに稲刈りが始まっています。
黄金色に実った稲を刈るコンバインの姿があちこちに見られます。

小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/01 14:18
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