常陸国風土記と地名(3)-筑波

常陸国風土記の筑波郡の記述には、
「筑波の県は、昔、紀(き)の国といった。
美麻貴の天皇(崇神天皇)の御世に、采女臣の一族が、筑箪命(つくはのみこと)を、この紀国の国造として派遣した。
筑箪命は「自分の名を国の名に付けて、後の世に伝へたい」といって、旧名の紀国を筑箪国と改め、さらに文字を「筑波」とした。」
とあります。
これによると 筑波は「紀の国」といったが、遣わされた国造の筑箪命が自分の名前を残したくて「筑箪」とし、文字を変えて「筑波」としたということになる。
筑箪を「つくは」と読むかどうかは怪しいが、「箪」は箪笥(たんす)のタンであり、訓読みなら「ハコ」だろう。
また国造(くにのみやっこ) として派遣されたとされる「筑箪命」は、3~4世紀初め頃の崇神天皇の時代に派遣された人物ではないかと考えられています。
さらに「紀の国」というと紀州和歌山を思い浮かべますが、「紀」は、柵または城に由来することばで、大和朝廷が対蝦夷を攻めていたときにその最前線に置かれた軍事基地を意味するものと考えられます。
この風土記に書かれている筑波の地名由来も、地名が先にあって、あとから考えたものかもしれません。
実際に、筑波の地名由来はいろいろな説があります。
しかしここではその先には深入りしないでおきましょう。
昔から人の名前はその人が住んでいた地名から呼ばれる場合がほとんどで、人の名前から地名になるものは少ないと思われます。もちろんある所に住んでいた豪族がその土地の名前で呼ばれていて、その部族が別な地に移って名前を変えずに、その新たに開拓した地がその人の名前と同じになるということはいくつか例があります。
さて、筑波山ですが、当時は
「西の頂は、高く険しく、雄をの神(男体山)といって登ることは出来ない。
東の頂(女体山)は、四方が岩山で昇り降りはやはり険しいが、道の傍らには泉が多く、夏冬絶えず湧き出てゐる。」
とされ、女体山では男女が山に登り、歌垣で歌を詠み楽しんでいたことが書かれています。
現在の「つくば市」周辺は「河内郡」ですが、風土記には「河内郡」の記載はありません。
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