FC2ブログ

常陸国風土記と地名(4)-信太

 信太(しだ)郡の名前の由来は風土記本文には残されておらず、逸文にあります。

風土記地名04


白雉4年(653年)に小山上物部河内・大乙上物部会津らが惣領高向の大夫らに要請し、筑波・茨城郡の700戸をもって信太の郡を設置したと書かれています。

黒坂命(くろさかのみこと)が蝦夷の征討へ赴いた。
勝利して凱旋の途上、多歌(多珂)郡の角枯之山に至ったところで、病にかかり亡くなった。
それゆえ、“角枯山”を改めて“黒前山”と名付けた。

黒坂命の棺を乗せた車は黒前山を発ち日高見国(美浦村)へ向かったが、葬列の飾り物は、赤い旗や青い旗がとりどりに翻り、雲の如く虹の如くに野を照らして、行く先々の道を輝かせたものである。
それを見た人々は「赤幡垂る国」と言い、後に改めて信太国という。

この中にでてくる黒坂命は多氏の一族といわれる武人ですが、この常陸国風土記にしかこの名前は登場しません。
現在の美浦村から霞ヶ浦を渡って石岡方面に進み、蝦夷を成敗しながら北へ進み、日立市の十王町の山までを征服していった人物と考えられます。

黒前山(くろさきのやま)は現在日立市十王町黒坂にある「竪破山(たつわれさん)」のことです。
「竪破山」というの名は、山頂に真っ二つに割れた巨石があるところから名づけられたといわれています。

この竪破山で亡くなった黒坂命の葬儀の列が向かったのが「日高見国」で、この地は現在の美浦村あたりといわれており、この黒坂命の墓として色川三中は「大塚古墳(1号)」をあげています。

また、当時はこの霞ヶ浦の手前の地である美浦村周辺が「日高見国(ひたかみのくに)」でした。
その後、蝦夷征伐が進むと「日高見国」は徐々に北へ移動して、岩手県の北上川流域になり、北海道の日高地方に移って言ったのではないかとも言われています。

その他に信太郡の所に書かれている地名を挙げておきます。

1)雄栗(をぐり)の村:「郡より北十里のところに、碓氷(うすい=碓井)がある。」・・・景行天皇が飲み水に困って井戸を掘らせた場所でこの井戸が「今でも雄栗(をぐり)の村にある」と書かれています。現在の陸平貝塚(おかだいらかいづか)にある「ぶくぶく」井戸の辺りではないかと見られています。

2)高来(たかく)の里:碓氷から西に行くと高来の里がある。・・・ここで普都(ふ つ)の大神が荒ぶる神たちを和めた後で、身に着けていた厳(いつ)の鎧・矛・楯・剣、手に付けていた玉を、すべて脱ぎ捨て、この国に遺して、天に昇り帰って行ったとなっています。
そのたてなどを脱ぎ去った場所が、楯縫神社や阿彌神社となっています。
高来の里は現在の阿見町竹来(たかく)のあたりだと見られています。

3)榎浦(えのうら)の津:東海道常陸路の入り口で、駅家(うまや)が置かれている。とあり、常陸国にはいるにはここで口と手を洗い、香島の大神(現在の鹿島神宮の神)を遥拝してから常陸国にはいるのが許されたと書かれています。
しかし、この「榎浦の津」がどこに当たるのかはいくつかの説があり判断も分かれています。津というので船着場の名前ですから、候補地は稲敷市の「江戸崎」「羽賀浦」「柴崎」などの地名が候補に挙がっています。しかし当時は現在の利根川も大分様子が違っており、大きな内海(香取の海など)が広がっていましたのではっきりとしないようです。

4)飯名(いひな)の社:筑波の山の飯名の神(つくば市臼井の飯名神社)を分祀したもので、現在の稲敷の地名の由来と見られています。ただ、この飯名の社がどこにあったのかは明確ではありません。候補としては龍ヶ崎市八代稲塚にある「稲敷神社」などが候補にあがっています。

5)乗浜(のりはま):倭武の天皇(やまとたける)が海辺を巡幸して、浜にはたくさんの海苔が干してあったので、「のりはまの村」と名付けられた。となっています。
和名類聚抄の郷名に「信太郡乗浜郷」があり、旧桜川村から東村の阿波崎あたりだと思われます。

6)浮島の村:乗浜の里から東に行くと、浮島の村がある。霞ケ浦に浮かぶ島で、山が多く人家はわづか十五軒。七、八町余の田があるのみで、住民は製塩を営んでいる。また九つの社があり、口も行ひもつつしんで暮らしている。となっています。
現在の浮島地区で、今は陸続きですが昔は島でした。


常陸国風土記と地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/13 06:07
コメント

管理者のみに表示