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常陸国風土記と地名(5)-茨城

風土記地名05


茨城の名前について風土記には2つの説が紹介されています。

1、昔、山の佐伯(さへき)、野の佐伯といふ国巣(くず)がいた。普段は穴を掘ってそこに住み、人が来れば穴に隠れ、去った後でまた野に出て遊んでいた。・・・(中略)・・・あるとき、大の臣の一族の黒坂命(くろさかのみこと)が、あらかじめ彼らの住む穴に茨(うばら)の刺を施し、突然、騎兵を放って彼らを追ひ立てた。佐伯たちは、あわてて穴に逃げ帰ったが、仕掛けられた茨の刺がからだ中に突き刺さり、あへなく皆死んでしまった。このときの茨から、茨城の名となった。
(佐伯とか国巣というのは原住民のことで、ヤマト朝廷は彼らを征圧した)

2、別の話では、山の佐伯、野の佐伯は、山野の賊を率ゐて自ら長となり、国中を盗みや殺しをして廻っていた。彼らと戦うために、黒坂命は、茨をもって城を造った。その土地の名を茨城というようになった。

と書かれていますが、これはどちらも先にあった地名に対して後から考えた伝承といっていいでしょう。

その他の書かれている地名について載せておきましょう。

1)信筑(しづくの)川:現在の恋瀬川です。信筑は現在のかすみがうら市の志筑のことで、この地を流れる川からついたものでしょう。

2)高浜:信筑川が海(現在の霞ヶ浦)に注いでいるところですから、今の石岡市高浜です。
この地は、花香る春に、また落葉散る秋に、乗り物を走らせ、舟を漕いで出かけるとすばらしい場所だと書かれています。

3)桑原(くわはら)の岡:郡より東十里のところに、桑原の岡がある。・・・旧玉里村の大宮神社あたりだと思われます。

4)田餘(たまり):昔、倭武の天皇(ヤマトタケル)が桑原の岡の上に留まられたとき、神に御食を供へるとともに水部に新しい井戸を掘らしめた。この清く香ぐはしい泉の水をおいしさうに飲み干され、「よくたまれる水かな」とおっしゃったので、この里の名を、田餘といふやうになった。この井戸の跡地とされる場所は現在の大宮神社の裏手にあります。
現在の小美玉市の玉里地区の旧玉里村は、1955年に「田余村」と「玉川村」が合併した時に「玉里村」となったものです。

茨城の名前については以前ブログで茨城の県名について数回にわたって書いています。(参考まで)
 ⇒ こちら



常陸国風土記と地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/14 07:07
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