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常陸国風土記と地名(6)-行方

白雉四年(653年)に、(中略) 茨城と那珂の郡からそれぞれ八里と七里、合計十五里(七百余戸)の土地を提供して、郡家を置いて、行方郡とした。

風土記地名06

行方郡の読み方は茨城の人以外はあまり読めない地名かもしれません。「ナメカタ」(現在の地名読みは:ナメガタ)と読みます。

常陸国風土記の地名由来説明は、

「昔、倭武の天皇(ヤマトタケル)が、車駕で国を巡り、現原(あらはら)の丘で神に御食を供へた。そのとき天皇は、四方を望み、侍従におっしゃった。「車を降りて歩きつつ眺める景色は、山の尾根も海の入江も、互ひ違ひに交はり、うねうねと曲がりくねっている。峰の頂にかかる雲も、谷に向かって沈む霧も、見事な配置で並べられていて、繊細な美しさがある。だからこの国の名を、行細(なめくはし)と呼ばう」。行細の名は、後には、行方(なめかた)というようになった。」

と述べていますが、これも伝承であり解釈は分かれます。

この郡家の場所は玉造の南部であり、現在明確にはされていません。

行方は、ヤマトタケル伝説がとても多いところです。
これはこの地が、周りの土地に比べ、大和朝廷の支配が少し遅れたと思われることに関係がありそうです。
この行方郡が置かれた西暦653年頃まで大和朝廷に抵抗する部族(風土記の中では佐伯、土蜘蛛などと呼ばれている)がいたのだと思われます。そのような背景を知ってからこの常陸国風土記を読むと内容も理解しやすいようです。

また古代陸奥国(現福島県)にも奥州行方郡(なめかたぐん)がありました。同じ呼び名であり関連性もありそうです。

では風土記の行方郡に書かれている主な地名とその由来伝承を拾い集めてみましょう。

1)玉清井(たまきよい):倭武の天皇(ヤマトタケル)が、清水で手を清め、玉をもって井戸をお褒めになった。これが玉の清井といわれ、今も行方の里にある。
・・・この玉清井は現在も残されています。 またこの説明が「行方」の名前由来説明の直前に書かれており、行方の名前との関連を指摘する意見もあります。

2)現原(あらはら)の丘: 倭武の天皇(ヤマトタケル)が登ってこの地を眺めた丘で、周囲から一際高く顕はれて見える丘なので、現原と名付けられたとなっています。

3)無梶河(かじなしがわ): 倭武の天皇(ヤマトタケル)が大益河(おほやがわ)に出て、小舟に乗って川を上られたとき、棹梶が折れてしまった。よってその川を無梶河(かぢなしがは)といふ。とあり、元は大益河と言ったことも記されています。・・・現在の梶無川

4)鴨野(かもの): 無梶河をさらに上って郡境まで至ると、鴨が飛び渡ろうとしていた。天皇が弓を射るや、鴨は地に堕ちた。その地を鴨野という。となっています。この鴨野という地名は現在の「加茂」ではないかと考えられていますが、この玉造保育園に近い場曾にある「鴨の宮」は、昭和2年に玉造郷校跡の少し離れた山の端の方から移転されたものです。
これは元あった鴨の宮の場所が鹿島鉄道の線路がこの近くを通ることになったためです。

5)香取の神の分祀された社:枡(ます)の池の北には、香取の神を分祀した社がある。・・・現在の側鷹【そばたか】神社 

6)提賀(てが)の里:この地に住んでいた手鹿といふ名の佐伯を偲んで名付けられた。・・・現在の行方市手賀
佐伯というのは大和朝廷に抵抗していた原住民たちのことです。(サエキ=さえぎる) 

7)曾尼(そね)の村:この地に住んでいた疎禰毘古(そねびこ)という佐伯の名から名付けられた。今は駅家(うまや)が置かれ、曾尼の駅と呼ばれる。・・・椎井池の近くの国道50号線の方に駅家跡の碑が置かれているが確定はされていない。

8)椎井(しい)の池:身の形は蛇であるが、頭に角があるという「夜刀(やつ、やと)の神」がいて、椎井の池の先の山に棲んでいた。この地が夜刀の神との境界で、この近くには香島(鹿島神宮)への陸路の駅道となっていた。・・・行方市玉造甲の愛宕神社付近

9)男高(をだか)の里:この地に住んでいた小高(をだか)といふ名の佐伯に因んで名付けられた・・・現在の行方市小高

10)鯨岡:昔、鯨がここまではらばって来てそのまま伏せって息絶えた場所・・・現在の行方市鯨岡

11)麻生の里:昔、沢の水際に麻が生えていた。その麻は竹のように太く、長さ一丈に余りあるほどだった。・・・現在の行方市麻生

12)香澄(かすみ)の里:古い伝へに、大足日子の天皇(景行天皇)が、下総の国の印波(いなみ)の鳥見(とりみ)の丘に登られたとき、国を望み、東を振り向いて「海にただよふ青い波と、陸にたなびく赤い霞の中から湧き上がるようにこの国は見えることだ」とおっしゃった。この時から、人は、「霞の郷」と呼ぶようになった・・・現在の潮来市永山付近

13)新治の洲:香澄の里より西の海にある洲は、新治の洲といふ。洲の上に立って北を遥かに望めば、新治の国の小筑波の山が見えることから、名付けられた・・・現在の行方市麻生の天王崎あたり

14)板来(いたく)の村:香澄の里より南十里のところに、板来の村がある。近くの海辺の渡し場に駅家が置かれ、板来の駅家という。また名前の由来については、建借間(たけかしま)命がやってきて穴に隠れた賊を戦略を持っておびき出し皆殺しにした話と関連づけて、以下の4つの名前が書かれています。
・伊多久(板来)の郷:痛く討つ言った所・・・現在の「潮来」(いたこ)
・布都奈(ふつなの)村:ふつに斬ると言った所・・・現在の潮来市「古高」(ふったか)
・安伐(やすきりの)里:安く斬ると言った所・・・現在の潮来市古高にある「安波台」
・吉前(えさきの)邑:吉(よく)斬ると言った所・・・現在の潮来市(旧延方村)の「江崎」

15)当麻(たぎま)の郷:鳥日子(とりひこ)といふ名の佐伯が命に反逆したので、これを討った。車駕の行く道は狭く、たぎたぎしく、悪路であったことから名付けられた・・・現在の鉾田市当間(とうま)

16)芸都(きつ)の里:昔、寸津比古(きつひこ)、寸津比売(きつひめ)といふ二人の国栖(くず)がいた。寸津比古は、はなはだ無礼な振る舞いをしたので、一太刀で討たれてしまった。寸津比売は白旗をかかげて道端にひれ伏し、天皇を迎えたため、天皇は許した。小抜野(おぬきの)の仮宮に行くときに寸津比売は姉妹をともに引き連れ、真の心を尽くして仕へたため、天皇はそれを愛しく思い、この野を「うるはしの小野」というようになった・・・現在の行方市内宿にある化蘇沼稲荷神社あたり。

17)田の里:この地の古都比古(こつひこ)といふ人物が三度韓国に遣はされ、その功労に対し、田を賜ったことからその名となった。(古事記や日本書紀に書かれている「三韓征伐」伝承と一致する)・・・場所は未特定だが現在の行方市繁昌付近か。

18)波須武(はずむ)の野:倭武の天皇の仮宮を構へ、弓筈(ゆはず)をつくろったことから、名づけられた。・・・現在の行方市(旧麻生町)小牧付近

19)相鹿(あふか):倭武の天皇の后の大橘比売(おほたちばなひめ)の命が、大和から降り来て、この地で天皇にお逢いになったことから、安布賀(あふか)の邑という(東京湾で入水して死んだ弟橘姫にこの地で再会した)・・・現在の相賀(あいが)山寿福寺跡あたり(行方市岡)

20)大生(おほふ)の里:倭武の天皇が、相鹿の丘前(おかざき)の宮に留まられたときに、膳炊屋舎(おほひどの)を浦辺に建てて、小舟を繋いで橋として御在所に通はれた。大炊(おほひ)から大生と名付けた。・・・現在の潮来市大生(大生神社)

(注)風土記に登場する地名の現在地は明らかになっていないところも多くあり、ここに書いた場所は現在推察されている地名を上げています。

常陸国風土記と地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/15 05:50
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