常陸国風土記と地名(8)-那賀
那賀(なか)郡の那賀についての由来は書かれたものが見つかっていない。

平津の駅家(ひらつのうまや): 古代の官道駅家があった場所で現在の水戸市平戸町あたり
大櫛(おおぐし)の岡:
平津の駅家の西一、二里のところに、大櫛といふ名の岡がある。昔、大男がいて、岡の上に立ったまま手をのばして海辺の砂浜の大蛤をほじって食べた。その貝殻が積もって岡となった。大きくくじったことから、大櫛の岡の名がついた。大男の足跡は、長さ四十歩以上、幅二十歩以上で、小便の跡の穴は、直径二十歩以上ある。
・・・大男のダイダラボッチ伝説である。現在国道51号線近くに「大串貝塚ふれあい公園」があり、ダイダラボッチ大男の巨大なモニュメントがある。
晡時臥(くれふし)山:
茨城の里は、北に高い丘があり、晡時臥の山という。
・・・水戸市木葉下町(あぼっけちょう)にある朝房山(あさぼうやま)とみられている
この後に次の話がのっている。
「この里に、昔、努賀毗古(ヌカヒコ)・努賀毗咩(ヌカヒメ)といふ兄妹がいた。ある夜、ヌカヒメが寝床にいると、名も知らぬ男がいて求婚し、朝帰っていった。一晩で夫婦となり、やがて子ができたが、生まれた子は小さな蛇だった。
蛇の子は、昼は押し黙ったままで、夜になるとヌカヒメに語りかけた。ヌカヒメと兄は、神の子ではないかと驚き、清めた杯に蛇を寝かせて、土の祭壇の上に安置した。ところが、次の夜には、杯からはみ出すほどの大きさになっていた。そこで、もっと大きな平瓮に移しかえたが、次の夜には更に大きくなっていた。こんなことを何度も繰り返しているうちに、家にあるどの器も合わなくなってしまった。 ヌカヒメは、「あなたの不思議な力を見ていると神の子なのだということがよくわかります。わたしたちの力では育てきれません。どうか父の神のところにお行きなさい。」と蛇の子にいうと、蛇の子は悲しんで泣いて、涙を拭いながら「おっしゃるとおりですので、お言葉にしたがいます。けれど一人で旅をするのはかなわぬことですから、できればもう一人の子どもとともに行かせてください。」といった。ヌカヒメが「わたしの家には、わたしと兄しかいません。見ればわかるでしょう。あいにく誰も一緒には行けません。」というと、蛇の子はうらめしそうに口をつぐんだ。
別れのときになって、蛇の子は怒りを押さえきれず、雷の姿になって、伯父のヌカヒコを殺し、そのまま天に昇らうとしたが、これに驚き怒った母が、平瓮を投げ当てると、平瓮の呪力で蛇は昇ることができず、そのままくれふしの山の峯にとどまることになった。蛇の子が眠った器は、今も片岡の村にある。兄妹の子孫は、社を立てて蛇を祭ったので、家が絶えてしまふことはなかった。」
粟川、河内
郡家より東北の粟川の両岸に、駅家が置かれた。駅家の周りを河がめぐっていたので、「河内の駅家」の名がついた。
・・・粟川 : 現那珂川
・・・河内の駅家 ; 現水戸市上河内町(かみがちちょう)、中河内町(なかがちちょう)あたり
曝井(さらしい):
駅家の南の坂の途中に泉があり、清い水がたくさん出る。曝井(さらしい)といい、付近の村の女は、夏の月に集まって、布を洗って、日に曝して乾す。・・・現水戸市愛宕町の「萬葉曝井の森」という公園あたり

平津の駅家(ひらつのうまや): 古代の官道駅家があった場所で現在の水戸市平戸町あたり
大櫛(おおぐし)の岡:
平津の駅家の西一、二里のところに、大櫛といふ名の岡がある。昔、大男がいて、岡の上に立ったまま手をのばして海辺の砂浜の大蛤をほじって食べた。その貝殻が積もって岡となった。大きくくじったことから、大櫛の岡の名がついた。大男の足跡は、長さ四十歩以上、幅二十歩以上で、小便の跡の穴は、直径二十歩以上ある。
・・・大男のダイダラボッチ伝説である。現在国道51号線近くに「大串貝塚ふれあい公園」があり、ダイダラボッチ大男の巨大なモニュメントがある。
晡時臥(くれふし)山:
茨城の里は、北に高い丘があり、晡時臥の山という。
・・・水戸市木葉下町(あぼっけちょう)にある朝房山(あさぼうやま)とみられている
この後に次の話がのっている。
「この里に、昔、努賀毗古(ヌカヒコ)・努賀毗咩(ヌカヒメ)といふ兄妹がいた。ある夜、ヌカヒメが寝床にいると、名も知らぬ男がいて求婚し、朝帰っていった。一晩で夫婦となり、やがて子ができたが、生まれた子は小さな蛇だった。
蛇の子は、昼は押し黙ったままで、夜になるとヌカヒメに語りかけた。ヌカヒメと兄は、神の子ではないかと驚き、清めた杯に蛇を寝かせて、土の祭壇の上に安置した。ところが、次の夜には、杯からはみ出すほどの大きさになっていた。そこで、もっと大きな平瓮に移しかえたが、次の夜には更に大きくなっていた。こんなことを何度も繰り返しているうちに、家にあるどの器も合わなくなってしまった。 ヌカヒメは、「あなたの不思議な力を見ていると神の子なのだということがよくわかります。わたしたちの力では育てきれません。どうか父の神のところにお行きなさい。」と蛇の子にいうと、蛇の子は悲しんで泣いて、涙を拭いながら「おっしゃるとおりですので、お言葉にしたがいます。けれど一人で旅をするのはかなわぬことですから、できればもう一人の子どもとともに行かせてください。」といった。ヌカヒメが「わたしの家には、わたしと兄しかいません。見ればわかるでしょう。あいにく誰も一緒には行けません。」というと、蛇の子はうらめしそうに口をつぐんだ。
別れのときになって、蛇の子は怒りを押さえきれず、雷の姿になって、伯父のヌカヒコを殺し、そのまま天に昇らうとしたが、これに驚き怒った母が、平瓮を投げ当てると、平瓮の呪力で蛇は昇ることができず、そのままくれふしの山の峯にとどまることになった。蛇の子が眠った器は、今も片岡の村にある。兄妹の子孫は、社を立てて蛇を祭ったので、家が絶えてしまふことはなかった。」
粟川、河内
郡家より東北の粟川の両岸に、駅家が置かれた。駅家の周りを河がめぐっていたので、「河内の駅家」の名がついた。
・・・粟川 : 現那珂川
・・・河内の駅家 ; 現水戸市上河内町(かみがちちょう)、中河内町(なかがちちょう)あたり
曝井(さらしい):
駅家の南の坂の途中に泉があり、清い水がたくさん出る。曝井(さらしい)といい、付近の村の女は、夏の月に集まって、布を洗って、日に曝して乾す。・・・現水戸市愛宕町の「萬葉曝井の森」という公園あたり
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