常陸国風土記と地名(9)-久慈
久慈(くじ)郡の名前の由来は「郡家の南近くに小さな丘があり、そのかたちが鯨に似ていたことから倭武の天皇(ヤマトタケル)が久慈と名付けた」と書かれています。

1)谷合山:切り立ったこの山の絶壁は、一枚岩のようで、そこに大きな穴があいており、そこにサルが群がって生活している。
・・・現在地は不明だが、岩がゴツゴツした山ということで奥久慈の大子町南にある男体山あたりか。 また竜神吊り橋のある武生山(たきゅうさん)あたりも気になる
2)河内の里: ここは昔「古々(ここ)の村」といったが、これは猿の鳴声(ここ)からきたという。
・・・旧水府村の東部と旧常陸太田市の北部にまたがった地域で河内村(かわちむら)があった
3)静織の里:ここで初めて倭文を織る機が使われたことから名付けられた。
・・・現在の静神社付近
4)玉川:この小川は青色の瑪瑙(メノウ)がとれ、良い火打石になるために玉川と名付けられた。
・・・現在も玉川という。水郡線の常陸大宮から玉川村駅にかけてのあたり。
5)山田の里: 新しい田が多いことから名がついた。里の清き河(現山田川)は、北の山から流れ出て久慈河にそそいでいる。大きな鮎(あゆ)がとれる。清き泉がここにそそいでいて、夏にはあちこちの村里から暑さをのがれて、手をとりあって集まってきてここで筑波山のような歌垣が行われていた。
・・・現常陸太田市和田町、松平町あたり、旧山田村
6)大伴の村:この村の河の崖には鳥が群らがり黄色の土をついばんで食べる。
・・・現常陸太田市
7)太田の郷: この郷には長幡部の社がある。ここの織物は、裁つことも縫うこともなくそのまま着ることができ「全服(うつはた)」という。別の言い伝えでは、太絹を織るのに人目を隠れ家の戸を閉めて暗いところで織ったことから「烏織」というとも。力自慢の軍人の剣でもこれを裁ち切ることはできない。
・・・現常陸太田長幡部神社
8)薩都(さつ)の里:昔、土蜘蛛いう名の国栖がいて、兎上の命の軍に滅ぼされたときに「幸なるかも」と言ったことから、佐都と名付けた。
・・・現在の薩都神社(さとじんじゃ:常陸太田市里野宮町)あたりが中心で、この薩都(さつ、さと)の名前は「里川」「常陸太田市里美」「里野宮」などの地名として残っている。
・薩都河(さとがわ):源は北の山に起こり、南に流れて久慈河に合流する。 ・・・現在の里川
9)賀毗禮(かびれ)の高峯:この里の東に大きな山があり賀毗禮の高峯という。
昔、立速男の命が天より降り来てこの地に留まった。この場所に向かって人が大小便でもしようものなら、たちまちこの神の祟りにふれて病にかかった。このためこの里には病人が増え続けてしまい、困って朝廷に報告して、片岡の大連を遣はしてもらった。そしてこの地に神を祭り、「今ここの土地は、百姓が近くに住んでいるので、朝夕に穢れ多き所です。よろしく遷りまして、高山の清き境に鎮まりませ」と申し上げたところ、神はこれをお聞きになって、賀毗禮の峯にお登りになった。
・・・現在日立市の御岩神社奥宮のある御岩山がこの賀毗禮の高峯だと考えられている。
10)密筑(みつき)の里: この村に大井という泉(現水木町の泉)があり、その水は、夏冷たく冬温かい。・・・現日立市水木町付近
11)高市(たけち):、高市から東北へ二里のところに密筑(みつき)の里がある
高市(たけち)・・・現大甕駅の西南側の日立市石名坂町から南高野町付近
密筑(みつき)の里・・・ 現日立市水木町に「泉が森」という県指定史跡の池がある
12)助川(すけがわ):ここは、むかし倭建の天皇(ヤマトタケル)がここで皇后様(弟橘姫)と行き逢うことができたので遇鹿(あひか)といっていた。このあたりで鮭が採れた。俗に鮭の祖を「すけ」というので「助川」というようになった。ここには助川の駅がある。
・・・現在の日立市助川付近

1)谷合山:切り立ったこの山の絶壁は、一枚岩のようで、そこに大きな穴があいており、そこにサルが群がって生活している。
・・・現在地は不明だが、岩がゴツゴツした山ということで奥久慈の大子町南にある男体山あたりか。 また竜神吊り橋のある武生山(たきゅうさん)あたりも気になる
2)河内の里: ここは昔「古々(ここ)の村」といったが、これは猿の鳴声(ここ)からきたという。
・・・旧水府村の東部と旧常陸太田市の北部にまたがった地域で河内村(かわちむら)があった
3)静織の里:ここで初めて倭文を織る機が使われたことから名付けられた。
・・・現在の静神社付近
4)玉川:この小川は青色の瑪瑙(メノウ)がとれ、良い火打石になるために玉川と名付けられた。
・・・現在も玉川という。水郡線の常陸大宮から玉川村駅にかけてのあたり。
5)山田の里: 新しい田が多いことから名がついた。里の清き河(現山田川)は、北の山から流れ出て久慈河にそそいでいる。大きな鮎(あゆ)がとれる。清き泉がここにそそいでいて、夏にはあちこちの村里から暑さをのがれて、手をとりあって集まってきてここで筑波山のような歌垣が行われていた。
・・・現常陸太田市和田町、松平町あたり、旧山田村
6)大伴の村:この村の河の崖には鳥が群らがり黄色の土をついばんで食べる。
・・・現常陸太田市
7)太田の郷: この郷には長幡部の社がある。ここの織物は、裁つことも縫うこともなくそのまま着ることができ「全服(うつはた)」という。別の言い伝えでは、太絹を織るのに人目を隠れ家の戸を閉めて暗いところで織ったことから「烏織」というとも。力自慢の軍人の剣でもこれを裁ち切ることはできない。
・・・現常陸太田長幡部神社
8)薩都(さつ)の里:昔、土蜘蛛いう名の国栖がいて、兎上の命の軍に滅ぼされたときに「幸なるかも」と言ったことから、佐都と名付けた。
・・・現在の薩都神社(さとじんじゃ:常陸太田市里野宮町)あたりが中心で、この薩都(さつ、さと)の名前は「里川」「常陸太田市里美」「里野宮」などの地名として残っている。
・薩都河(さとがわ):源は北の山に起こり、南に流れて久慈河に合流する。 ・・・現在の里川
9)賀毗禮(かびれ)の高峯:この里の東に大きな山があり賀毗禮の高峯という。
昔、立速男の命が天より降り来てこの地に留まった。この場所に向かって人が大小便でもしようものなら、たちまちこの神の祟りにふれて病にかかった。このためこの里には病人が増え続けてしまい、困って朝廷に報告して、片岡の大連を遣はしてもらった。そしてこの地に神を祭り、「今ここの土地は、百姓が近くに住んでいるので、朝夕に穢れ多き所です。よろしく遷りまして、高山の清き境に鎮まりませ」と申し上げたところ、神はこれをお聞きになって、賀毗禮の峯にお登りになった。
・・・現在日立市の御岩神社奥宮のある御岩山がこの賀毗禮の高峯だと考えられている。
10)密筑(みつき)の里: この村に大井という泉(現水木町の泉)があり、その水は、夏冷たく冬温かい。・・・現日立市水木町付近
11)高市(たけち):、高市から東北へ二里のところに密筑(みつき)の里がある
高市(たけち)・・・現大甕駅の西南側の日立市石名坂町から南高野町付近
密筑(みつき)の里・・・ 現日立市水木町に「泉が森」という県指定史跡の池がある
12)助川(すけがわ):ここは、むかし倭建の天皇(ヤマトタケル)がここで皇后様(弟橘姫)と行き逢うことができたので遇鹿(あひか)といっていた。このあたりで鮭が採れた。俗に鮭の祖を「すけ」というので「助川」というようになった。ここには助川の駅がある。
・・・現在の日立市助川付近
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