熱田神社の狛犬(潮来市築地)
潮来市の少し北部に築地という場所があり、ここに熱田神社という古い神社があります。
ヤマトタケルと30人の勇敢な勇者を祀っているという。
ここに大正9年に製作された狛犬が鎮座している。
なかなか格好がいい。

こちらが口を開けた阿型。
どこかニタニタ笑っているような表情だ。

こちらが口を閉じた吽(うん)型
今にもとびかかりそうだ。



この熱田神社は位置的には、とても気になるところにある。
大和民族の多氏(大氏)が、霞ケ浦を渡って潮来(板久)に攻め入った。
そして大生郷(おおうごう)へ進出してそこを自分たちのすみかにした。
この熱田神社にはヤマトタケルとその進出してきたときに大きな功績があった30人の勇者をまつっているという。
地名は築地と書いて「ついじ」と読む。
この名前は功績のあった土地を崇めて「都恵地」と言ったのが、いつの間にか「築地」となったという。
本当のところはわからないが、地形的には高台なので東京の築地のような埋め立てられた土地というのとは異なるだろう。
地図に気になる地名にマルをつけた。
熱田神社の隣りにむかし津知村の第二小学校があった。
水郷潮来のすぐ東に津知村役場があった。
今この津知村役場跡の隣りに二十三夜尊を祀る神社があり、その境内に江戸末期の旧延方郷校の「孔子聖堂」が移されている。
またその隣には、源頼朝が鹿島神宮に戦勝祈願の為に「祈願文」を書いたとされるが、その時に使った硯(すずり)を奉納したという「硯宮(すずりのみや)神社」がある。
この辻から北の大生へ伸びる道は古代の道なのだろう。
辻(つじ)は辻=津知 で通りの港への分かれ道で「津(船着き場)、港)」を知る場所でもあった。
また「古高」(ふったか)なども興味深い地名だ。
潮来・辻と大生を結ぶ道があるが、ここを国道50号線が横切ることになった。
それがちょうどこの熱田神社のところと重なった。
そして立体交差にはなったが、熱田神社の湧水があった「御手洗池」をつぶしてしまうことになった。
そして今はその跡を後世に残すために記念碑と小さな鳥居や、御手洗池、祠などが置かれている。



ヤマトタケルと30人の勇敢な勇者を祀っているという。
ここに大正9年に製作された狛犬が鎮座している。
なかなか格好がいい。

こちらが口を開けた阿型。
どこかニタニタ笑っているような表情だ。

こちらが口を閉じた吽(うん)型
今にもとびかかりそうだ。



この熱田神社は位置的には、とても気になるところにある。
大和民族の多氏(大氏)が、霞ケ浦を渡って潮来(板久)に攻め入った。
そして大生郷(おおうごう)へ進出してそこを自分たちのすみかにした。
この熱田神社にはヤマトタケルとその進出してきたときに大きな功績があった30人の勇者をまつっているという。
地名は築地と書いて「ついじ」と読む。
この名前は功績のあった土地を崇めて「都恵地」と言ったのが、いつの間にか「築地」となったという。
本当のところはわからないが、地形的には高台なので東京の築地のような埋め立てられた土地というのとは異なるだろう。
地図に気になる地名にマルをつけた。
熱田神社の隣りにむかし津知村の第二小学校があった。
水郷潮来のすぐ東に津知村役場があった。
今この津知村役場跡の隣りに二十三夜尊を祀る神社があり、その境内に江戸末期の旧延方郷校の「孔子聖堂」が移されている。
またその隣には、源頼朝が鹿島神宮に戦勝祈願の為に「祈願文」を書いたとされるが、その時に使った硯(すずり)を奉納したという「硯宮(すずりのみや)神社」がある。
この辻から北の大生へ伸びる道は古代の道なのだろう。
辻(つじ)は辻=津知 で通りの港への分かれ道で「津(船着き場)、港)」を知る場所でもあった。
また「古高」(ふったか)なども興味深い地名だ。
潮来・辻と大生を結ぶ道があるが、ここを国道50号線が横切ることになった。
それがちょうどこの熱田神社のところと重なった。
そして立体交差にはなったが、熱田神社の湧水があった「御手洗池」をつぶしてしまうことになった。
そして今はその跡を後世に残すために記念碑と小さな鳥居や、御手洗池、祠などが置かれている。



ゴルフ場や国道ができる前の地図なども眺めてみたいと思います。
「津=湊=船着き場=人の集まる場所」のような意味はありますので、辻の言葉の元は「津知」ではないかと思います。
いろいろ言葉も面白いです。 確かに「築地」も「津知」あたりから来ているのかもしれませんね。
> 「築地」、「辻」、「津知」、いずれも読みが似ていて、港(津)への分かれ道という意味があるのですね。
> ゴルフ場や国道ができる前の地図なども眺めてみたいと思います。