日吉山王神社(永山)
先日、潮来市牛堀地区にある「三熊野神社」を訪れて、この神社が香澄の郷公園近くの「日吉山王神社」付近から移されたことを知った。
今まで霞ケ浦湖岸近くの神社などを主に見てきたが、こちらの神社はあまり紹介されている記事も少なくノーマークであった。
湖岸の北側沿いを走る国道355号線潮来の方に向かって走っていくと、国道50号線(水戸-鹿島-香取-成田-千葉)と立体交差する一つ手前の信号「永山」がある。
左「かすみの郷公園」の案内があり、以前1度公園を見に行った。
運動場などがあり、周囲には何もない。道路などの整備で工事個所が数カ所あった。
このあたりが霞ケ浦の名前のもととなった「かすみの郷」なのかと少しがっかりした思いがあった。
しかし、その手前にこの神社があったのだがまるで気が付かなかった。案内板などもない。

日吉山王神社というのは茨城の方には少ないように思う。日枝神社や山王神社は関東にはかなりある。
地元近くにもある。
ただこの神社の総本山は滋賀県大津市にある「日吉大社」だという。
この大津の日吉大社が全国の日吉神社、日枝(ひえ)神社、山王神社の総本山だという。
日吉大社は大山咋神(オオヤマクイノカミ)の荒魂が祭られている。
大山咋神は大山に杭を打ち込んだ神と言われ、農耕の守護神だそうだ。

この永山の日吉山王神社の創建など何も書かれているものが現地になかった。
あったのは旧牛堀町指定の天然記念物「日吉山王神社の森」の説明看板のみ。

神社の本殿。

由緒正しき神社らしい。 出雲系神社か?

境内の木々はこのように枝を伸ばし、樹叢を形成している。
写真の拝殿まで這うように枝を伸ばしている木は「さくら」だそうだ。
桜の古木がこのように横に走っているのは見たことがない。
ご神木は大杉で、周囲3.26m、樹高25mで地上から5mのところで3つに枝分かれしているという。

右から左に書かれた神社の額。

拝殿と本殿の間の扉が開いていたので中に入り狛犬さんにご挨拶。
なかなか愛嬌のある狛犬だ。


境内にはたくさんの祠が並べられていた。
森の中に置かれていたものか?

こちらは入口鳥居の近くの境内社らしい。
柵で囲われていたが説明は無し。

この神社までは永山の信号から曲がってすぐに左側(西側)に曲がって、広い道路と並行に走る細い道を神社まで真っ直ぐ入ってきた。
家が数件と畑の中の未舗装の道を走るとこの神社の正面に出た。
恐らく昔はいろいろこのあたりも人が多く水んでいたのかもしれないが、霞ケ浦の水産業や水運で湖岸は栄えても山の上の方はあまり開けなかったのだろう。
戦国時代末期まで行方四頭の島崎氏と麻生氏の中間で争いもあったらしい。
そんなことは何も感じさせてくれない。江戸時代になると麻生は麻生藩、潮来の方は水戸藩であった。
このあたりも水戸藩なのか。
この神社に注目したわけを書くのを忘れたが、「かすみの郷」の名前の由来に遡る。
ヤマトタケルの父親である「景行天皇」が下総の国にやってきた。
恐らく亡くなったヤマトタケルの歩いた跡を探して歩いた時かも知れない。
「印波(いには)の鳥見(とりみ)の丘」に登って、香取の海(現在の霞ケ浦と印旛沼などを含む大きな内海)をながめた。
すると青く美しい海が広がり、その先は霞がかかった陸が見えた。そのためその場所を「かすみの郷」と呼ぶことにした。
またかすみの郷の洲から新治や筑波山が見えた。
そこをニイハリの洲と呼んだ。 今の天王崎あたりだ。
鳥見の丘がどこになるかはいくつか説もある。
印西市小林の鳥見(とみ)神社または栄町の一宮神社あたりがその候補地だ。
個人的には栄町の一宮神社の方がイメージには近い気がする。
いずれにせよ、今は昔の地形とはかなり違っており想像するしかないのだが、Flood Mapsという地図ソフトは便利だ。
海面の高さを好きに上げてみることができる。
私は時々シュミレーションで海面を上げて楽しんでいる。

今まで霞ケ浦湖岸近くの神社などを主に見てきたが、こちらの神社はあまり紹介されている記事も少なくノーマークであった。
湖岸の北側沿いを走る国道355号線潮来の方に向かって走っていくと、国道50号線(水戸-鹿島-香取-成田-千葉)と立体交差する一つ手前の信号「永山」がある。
左「かすみの郷公園」の案内があり、以前1度公園を見に行った。
運動場などがあり、周囲には何もない。道路などの整備で工事個所が数カ所あった。
このあたりが霞ケ浦の名前のもととなった「かすみの郷」なのかと少しがっかりした思いがあった。
しかし、その手前にこの神社があったのだがまるで気が付かなかった。案内板などもない。

日吉山王神社というのは茨城の方には少ないように思う。日枝神社や山王神社は関東にはかなりある。
地元近くにもある。
ただこの神社の総本山は滋賀県大津市にある「日吉大社」だという。
この大津の日吉大社が全国の日吉神社、日枝(ひえ)神社、山王神社の総本山だという。
日吉大社は大山咋神(オオヤマクイノカミ)の荒魂が祭られている。
大山咋神は大山に杭を打ち込んだ神と言われ、農耕の守護神だそうだ。

この永山の日吉山王神社の創建など何も書かれているものが現地になかった。
あったのは旧牛堀町指定の天然記念物「日吉山王神社の森」の説明看板のみ。

神社の本殿。

由緒正しき神社らしい。 出雲系神社か?

境内の木々はこのように枝を伸ばし、樹叢を形成している。
写真の拝殿まで這うように枝を伸ばしている木は「さくら」だそうだ。
桜の古木がこのように横に走っているのは見たことがない。
ご神木は大杉で、周囲3.26m、樹高25mで地上から5mのところで3つに枝分かれしているという。

右から左に書かれた神社の額。

拝殿と本殿の間の扉が開いていたので中に入り狛犬さんにご挨拶。
なかなか愛嬌のある狛犬だ。


境内にはたくさんの祠が並べられていた。
森の中に置かれていたものか?

こちらは入口鳥居の近くの境内社らしい。
柵で囲われていたが説明は無し。

この神社までは永山の信号から曲がってすぐに左側(西側)に曲がって、広い道路と並行に走る細い道を神社まで真っ直ぐ入ってきた。
家が数件と畑の中の未舗装の道を走るとこの神社の正面に出た。
恐らく昔はいろいろこのあたりも人が多く水んでいたのかもしれないが、霞ケ浦の水産業や水運で湖岸は栄えても山の上の方はあまり開けなかったのだろう。
戦国時代末期まで行方四頭の島崎氏と麻生氏の中間で争いもあったらしい。
そんなことは何も感じさせてくれない。江戸時代になると麻生は麻生藩、潮来の方は水戸藩であった。
このあたりも水戸藩なのか。
この神社に注目したわけを書くのを忘れたが、「かすみの郷」の名前の由来に遡る。
ヤマトタケルの父親である「景行天皇」が下総の国にやってきた。
恐らく亡くなったヤマトタケルの歩いた跡を探して歩いた時かも知れない。
「印波(いには)の鳥見(とりみ)の丘」に登って、香取の海(現在の霞ケ浦と印旛沼などを含む大きな内海)をながめた。
すると青く美しい海が広がり、その先は霞がかかった陸が見えた。そのためその場所を「かすみの郷」と呼ぶことにした。
またかすみの郷の洲から新治や筑波山が見えた。
そこをニイハリの洲と呼んだ。 今の天王崎あたりだ。
鳥見の丘がどこになるかはいくつか説もある。
印西市小林の鳥見(とみ)神社または栄町の一宮神社あたりがその候補地だ。
個人的には栄町の一宮神社の方がイメージには近い気がする。
いずれにせよ、今は昔の地形とはかなり違っており想像するしかないのだが、Flood Mapsという地図ソフトは便利だ。
海面の高さを好きに上げてみることができる。
私は時々シュミレーションで海面を上げて楽しんでいる。

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