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景行天皇は東国に来たのか?

 常陸国風土記を紐解いていると景行天皇が東国にやってきた事が数カ所に書かれている。
景行天皇は第12代天皇で、ヤマトタケルの父と言った方がわかりやすい。
しかし実在したのかどうかも分からない。

日本書紀によれば西暦71年から西暦130年の60年間在位したことになり、生まれたのは紀元前13年であるので、143歳まで生きたことになる。
また古事記には子供の数も80人いたとされ、奥さんの数も30人以上です。
また身の丈も一丈二寸(約2m)位の大男と書かれている。
各地の風土記などの記録や日本書紀によれば、景行天皇は息子のヤマトタケル(日本武尊)を東国に派遣し、自らは九州に遠征してそこの熊襲(くまそ)や土蜘蛛を征伐したとされる。

しかし、この時代はというと卑弥呼のいた邪馬台国の後である。
中国三国志(魏志倭人伝)が書かれたのは3世紀末頃であり、邪馬台国は西暦238年から247年頃の出来事だ。

では実際に景行天皇が実在したとするといつごろの時代になるかというと、恐らく西暦350年~380年頃になりそうです。

息子のヤマトタケルは東国を平定して伊勢に戻り亡くなったとされるが、常陸国風土記では、この死を悼み景行天皇は常陸国にも息子ヤマトタケルがたどった後を偲んで訪れます。

数カ所にしか出てきませんが、その跡を少したどってみたくなりました。

次の地図は昔の地形を再現するために「FloodMaps」という地図ソフトで海面の高さを+5mとしたものに風土記に記載された場所を記入したものです。

鳥見の丘3

まず千葉県側ですが、船橋や市川(上総国国府)の方から印旛沼近くの栄町あたりにきて「鳥見の丘」に上り、そこからかすみがたなびく先に陸をながめます。
そしてこのかすみがたなびく陸を「霞の郷」と呼ぶようになります。
この鳥見の丘の候補地を2か所記載しました。
「印西市小林の鳥見神社」と「栄町の一之宮神社」です。

その後どこへ行ったのでしょうか。
常陸国風土記の信太郡のところに、「大足日子(おほたらしひこ)の天皇(景行天皇)が浮島の帳の宮に行幸されたときに、飲み水に困った。そこで占部をして占ひをさせて、井戸を掘らしめた。その井戸は、今も雄栗(をぐり)の村にある。
と書かれています。
この雄栗の村は現在の陸平(おかだいら)貝塚あたりだと考えられており、この井戸が「ぶくぶく水」といわれる湧水だとされます。

この景行天皇が滞在したという浮島の帳(とばり)の宮については風土記の本文には残されてなく、逸文として残されたものがあります。
浮島の通りから少し高台になったところに「景行天皇行在所(あんざいしょ)跡」(お伊勢の台)という碑が立っています。
それによると、
この行宮に三十日(みそか)滞在したとあり、この島にいる「賀久賀鳥(かくがどり)」のさえずる声が可愛らしかったので伊賀理命を遣わして網を張ってこの鳥を捕まえさせたといいます。
そして、この鳥を捕まえた伊賀理命に「鳥取」という名前を与えたとされています。

常陸国風土記には景行天王は「大足日子(おほたらしひこ)の天皇」と表記され、日本武尊(ヤマトタケル)は「倭武 の天皇」と表記されています。

倭武 の天皇についてはたくさん出てくるのですが、大足日子の天皇については上記の2か所(鳥見の丘と浮島)だけです。

ヤマトタケルは想像の英雄とすると、その父景行天皇も架空の人物であるかもしれません。
でもなぜ東国の風土記の中にあえて2か所に名前を入れたのには何か意図があったのかもしれません。

まあ、風土記が書かれたのは景行天皇の時代からは350年ほど後になりますし、古事記や日本書紀などの神話成立とほぼ同じ時期ですので、この神話の影響は多分に受けているでしょう。


古代に夢をはせて | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/10/15 19:11
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