徳島県脇町の「うだつの街並み」
高松空港から山越えで徳島県の吉野川に下った所に美馬市脇町があります。
ここが「うだつの街」として全国に知られていますので、一度訪れてみたかったのです。
実はここは家内の祖母家があったところで、昔は大きな屋敷を構えていたそうです。
脇町は思ったより大きな街でした。徳島の藍(あい)の商人たちがここに集まり、徳島(蜂須賀家)の発展に大いに寄与したのだそうです。歴史をひも解いていくと面白いことがたくさんでてきます。

町の説明によると、ここ脇町は江戸中期から藍の集散地として栄華を極めたそうです。
現在残されている商屋の街並みが約430mに渡って並んでいます。
現存する最古のものは1707(宝永4)年だといいます。もうその頃から続いていたのですね。

虫籠窓(むしこまど)、蔀戸(しとみど)などの建築が目に留まります。
昭和63年12月16日に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、昔の街並みを保存修理しています。
馬篭宿なども同じでしょうし、佐原の町並なども数年にわたってみてきましたが、かなり手を入れて昔を再現しているのがわかります。この通りもおそらく基本は変わっていないでしょうが、見た目はきれいに整備しているのでしょう。

表通りから横の路地を眺めてみました。

通りは電柱は地下化されています。

「うだつ」とは上の写真にあるように隣家との境に取り付けられた小屋根のある土の壁のことで、火事の際に隣からの類焼を防ぐ防火壁の役割をしていました。
しかし、これを設けることはかなり費用が掛かったそうです。こう見ても飾りとしてしか思えませんね。
昔は「うだつの上がる」家は裕福な家の印なのです。蔵を土蔵で豪華に作るのにも似ていますね。

このうだつには瓦屋根があり、家紋や鬼の文様などの瓦が使われています。
見た目がきれいですので補修したのかそれとも作り直されたのかはわかりません。

何故ここにうだつの街並みができたのでしょうか? 少し調べてみました。
徳島特産の藍染めの「藍(アイ)」の一大集積地だということはわかりました。
でもそれにはそれなりの理由があるはずです。
この脇町には脇城というお城がありました。ここを収めていたのが「稲田氏」です。
この街の発展はこの稲田氏によるものだったようです。
徳島と言えば太平記に出てくる「蜂須賀小六(正勝)」が阿波の城主となったところです。
その第一家老が稲田植元なのですが、植元は父を謀反の疑いで切腹させられ、幼いころに蜂須賀正勝に預けられたといいます。
そして成人すると正勝とは義兄弟の契りを結び、共に羽柴秀吉に仕えます。
そしてこの脇城(1万石)に入ります。
そして、この場所が関西方面との交通の要でり、城を堅固なものに大改築し護りも固めました。
しかしこの地を発展させたのは商業面です。 楽市楽座を行い、何処の生まれの商人でも出入りを自由にし、商売の税も安くしたため、四国内はもとより、中国地方からもたくさんの商人が訪れるようになったのです。
特に藍(あい)商が栄え、コメなどの石高に比べてもこの藍染の商売だけでもかなりの財を蓄えることができたようです。
見かけの石高に比べて裕福な暮らしができたのです。
それが「うだつの町」としての街並みとなって残ったようです。



現在この脇町は美馬(みま)市となっています。 これは、この地が美馬郡と言われていたためですがこの名前には名馬の伝説があり、名馬の産地として知られているようです。
しかし、明治になると、この地を治めていた稲田氏はこの地から北海道日高地方の開拓を行っています。
そしてそこに多くの人が渡り、サラブレッドの名馬の飼育もしていったといいます。
ここが「うだつの街」として全国に知られていますので、一度訪れてみたかったのです。
実はここは家内の祖母家があったところで、昔は大きな屋敷を構えていたそうです。
脇町は思ったより大きな街でした。徳島の藍(あい)の商人たちがここに集まり、徳島(蜂須賀家)の発展に大いに寄与したのだそうです。歴史をひも解いていくと面白いことがたくさんでてきます。

町の説明によると、ここ脇町は江戸中期から藍の集散地として栄華を極めたそうです。
現在残されている商屋の街並みが約430mに渡って並んでいます。
現存する最古のものは1707(宝永4)年だといいます。もうその頃から続いていたのですね。

虫籠窓(むしこまど)、蔀戸(しとみど)などの建築が目に留まります。
昭和63年12月16日に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、昔の街並みを保存修理しています。
馬篭宿なども同じでしょうし、佐原の町並なども数年にわたってみてきましたが、かなり手を入れて昔を再現しているのがわかります。この通りもおそらく基本は変わっていないでしょうが、見た目はきれいに整備しているのでしょう。

表通りから横の路地を眺めてみました。

通りは電柱は地下化されています。

「うだつ」とは上の写真にあるように隣家との境に取り付けられた小屋根のある土の壁のことで、火事の際に隣からの類焼を防ぐ防火壁の役割をしていました。
しかし、これを設けることはかなり費用が掛かったそうです。こう見ても飾りとしてしか思えませんね。
昔は「うだつの上がる」家は裕福な家の印なのです。蔵を土蔵で豪華に作るのにも似ていますね。

このうだつには瓦屋根があり、家紋や鬼の文様などの瓦が使われています。
見た目がきれいですので補修したのかそれとも作り直されたのかはわかりません。

何故ここにうだつの街並みができたのでしょうか? 少し調べてみました。
徳島特産の藍染めの「藍(アイ)」の一大集積地だということはわかりました。
でもそれにはそれなりの理由があるはずです。
この脇町には脇城というお城がありました。ここを収めていたのが「稲田氏」です。
この街の発展はこの稲田氏によるものだったようです。
徳島と言えば太平記に出てくる「蜂須賀小六(正勝)」が阿波の城主となったところです。
その第一家老が稲田植元なのですが、植元は父を謀反の疑いで切腹させられ、幼いころに蜂須賀正勝に預けられたといいます。
そして成人すると正勝とは義兄弟の契りを結び、共に羽柴秀吉に仕えます。
そしてこの脇城(1万石)に入ります。
そして、この場所が関西方面との交通の要でり、城を堅固なものに大改築し護りも固めました。
しかしこの地を発展させたのは商業面です。 楽市楽座を行い、何処の生まれの商人でも出入りを自由にし、商売の税も安くしたため、四国内はもとより、中国地方からもたくさんの商人が訪れるようになったのです。
特に藍(あい)商が栄え、コメなどの石高に比べてもこの藍染の商売だけでもかなりの財を蓄えることができたようです。
見かけの石高に比べて裕福な暮らしができたのです。
それが「うだつの町」としての街並みとなって残ったようです。



現在この脇町は美馬(みま)市となっています。 これは、この地が美馬郡と言われていたためですがこの名前には名馬の伝説があり、名馬の産地として知られているようです。
しかし、明治になると、この地を治めていた稲田氏はこの地から北海道日高地方の開拓を行っています。
そしてそこに多くの人が渡り、サラブレッドの名馬の飼育もしていったといいます。
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