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平家ゆかりの寺-萬福寺(2)-重盛

 行方市の埴生にある萬福寺の続きです。
このお寺は「平家ゆかりの寺」と書かれる場合が多いのですが、あまり知られていないですね。

寺伝では、源平合戦に敗れた平家一門が都落ちした際、平家の重臣であった平貞能(さだよし)が、平清盛の長男で早死にした平重盛の遺骨とその守護仏の阿弥陀三尊像を携えて東国に落ち延びてきて、この寺にその三尊像と重盛の遺骨を奉じたとされています。
貞能は東国を流浪した末、同じ平家一門である行方次郎(平忠幹:たいらのただもと)を頼りに芹沢に庵を構え、安置したのがこの寺にある阿弥陀三尊立像だといわれています。この萬福寺は芹沢にありましたが1698年にここ埴生の地に移されたといわれています。

また寺の境内には平重盛や貞能の墓と言われる墓標もあります。

さてどこまでが真実でしょうか?
というのもここ常陸国以外にも宇都宮、仙台にまで平重盛と貞能伝説が残されているからです。

では少しこの寺の阿弥陀三尊と阿弥陀堂(共に茨城県の指定文化財)を見てみましょう。

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山門をくぐるとすぐ上にのぼる階段があり、登り切った正面に古い藁ぶき屋根の立派なお堂が目に入ります。
これが阿弥陀堂です。

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なかなか立派な造りです。

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萬福寺 阿弥陀堂(県指定有形文化財) 現地看板(上)と市の説明(下記)

この御堂は、阿弥陀如来立像と両脇侍像を納めた厨子を安置しており、唐和様折衷形式で、廟建築を加味した珍しい建物です。

三間四方の寄せ棟造り、四手先萱葺きで念仏三昧を修める常行堂様式に造られています。
内部の格天井鏡板には三頭の龍の図が色彩で描かれており、寄進銘に「貞亭四年(1687年)芹沢氏高幹」とあります。
高幹は、芹沢氏7代目で水戸徳川家に200石で仕えています。
元禄11年(1698年)水戸藩の宗教政策により、萬福寺は芹沢から羽生に移されました。

阿弥陀堂の内部には厨子に入った阿弥陀三尊像が安置されていますが、普段拝観することができませんので、紹介されている資料から詳細を書き出してみましょう。

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 阿弥陀如来立像は、96センチメートルの像高を有し、螺髪(らはつ)は細い針金をより合わせ一つずつ植付けにしています。玉眼入りの上品な顔立ちで、口をわずかに開き、歯が見える全国でも数少ない歯吹像です。衣紋には衣紋椽(えもんてん)を施してあり、足裏にまで仏足石にならい輪棒華瓶(りんぼうけびょう)の截金(きりかね)を施しているなど地方には稀な作となっています。

 また、観世音菩薩と勢至菩薩の両脇侍像の像高は、72センチメートルで阿弥陀如来立像とともに、阿弥陀堂にある厨子の中に安置され、この三尊は室町時代中期の秀作といわれています。

萬福寺_100

それほど大きな像ではありませんが室町時代中期の作と見られていますの「平重盛の守護仏」というのは少し無理があるかもしれません。
しかしかなり古く歴史ある仏像で一度拝顔したいですね。

さて、平重盛と言えば清盛の嫡男で跡目を嘱望されていましたが清盛より先に病死してしまい高野山に葬られたといわれています。
源平合戦で平家が九州目指して都落ちするときに、部下であった平貞能(さだよし)は自らが九州にての鎮圧活動などを通して九州での平家の援護は難しいことを知っており、一門が西国に逃げた時に重盛の墓を掘り起し、まわりの土は川に流して京をさり、東国に向かったといわれています。

この時にこの遺骨と、重盛夫人を伴って東国の平氏を頼って偲んでやってきたとされますが、これに伴い各地にいくつもの伝説が残されました。

茨城県城里町には「小松寺」という大きなお寺があります。
ここは重盛が京都六波羅の小松に屋敷を構えていたことから「小松殿」と呼ばれていたことから重盛ゆかりの寺とされ、「小松寺」と名付けられています。
ここにも平貞能が常陸国の平氏(大掾氏)を頼って、やってきて、この寺に重盛夫人と共に隠れていたとされます。
そのため、寺の裏山には重盛、重盛夫人、貞能の3人の比較的小さな五輪塔が残されています。

ではこちらの萬福寺はどのようないきさつがあったのでしょうか?
それには「芹沢氏」が関係しているようです。

芹沢氏は幕末の芹沢鴨などの名前でよく知られていますが、常陸大掾(だいじょう)氏の多気(北条)大掾氏(平氏)から出た家柄です。
多気大掾であった平義幹(多気太郎)が八田氏(小田氏)の換言で頼朝より駿河国の岡部氏に蟄居となり、この義幹の次男が芹沢氏の祖となった平茂幹です。

その後常陸大掾となった大掾馬場資幹が平茂幹を常陸国に呼び戻すことに成功し、その後の常陸大掾の補佐役をしてきました。

そして1590年の戦国末期に豊臣秀吉に取り入った佐竹氏が常陸国の統一を任され、最後には南方三十三館の平氏系の館主が捨て呼び出されてすべて殺されてしまいました。

この三十三館の中に芹沢氏はいなかったのです。呼び出しを受けたようですが行かなかったといわれています。
当然他にも呼び出しに応じない館主もいたのですが、佐竹氏はこれを攻め滅ぼしてしまいます。
ところがこの芹沢氏だけは佐竹氏との関係が良かったようで、逢えて攻め滅ぼされずに済んだといわれています。

当初、この芹沢氏が住んでいた「行方市芹沢」にこの萬福寺は建てられました。
現在地に移ったのは1698年です。
おそらくこの阿弥陀三尊像はこの芹沢氏の守護仏なのでしょう。

さて、この萬福寺には市指定の阿弥陀如来像がもう1体あり、こちらは阿弥陀堂の裏手にある寺の本堂に安置されています。

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萬福寺_219

 (説明板)
萬福寺の本尊であり、本堂に安置されています。来迎印(らいごういん)を結び蓮華座(れんげざ)上に立つほぼ三尺の阿弥陀如来像です。
 本像は、大粒の螺髪(らほつ)をあらわし、肉髻(にっけい)は低く、地髪の鉢が張り、髪際が中央でややさがる表現や、強い現実的な顔立ち、偏衫(へんさん)に衲衣(のうえ)をまとう衣文(えもん)の太くかつ動きをもった襞(ひだ)の彫り口や左肩に大きく折り返される衣端の表現など、鎌倉時代後半の作風を示しています。
割矧(わりはぎ)造り。玉眼。像高84.9センチメートル。

小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/11/10 11:18
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