銚子黒生海岸
今週始めに銚子に行ったときに銚子港の先の太平洋側に突き出している先に行ってみた。
そこは観光エリアとしては「銚子マリンタワー」とお魚市場などがある程度であまり見るところはない。
しかし「黒生(くろはい)」と呼ばれる地名があり、この名前の由来が気になったからでもある。
この地名の由来は良くわからないので、追って調べて見ようと思うが、近くを走る銚子電鉄の駅名「笠上黒生駅(かさがみくろはええき)」は企業にネーミングライツ権を譲渡し、2015年~2018年までに「髪毛黒生駅(かみのけくろはええき)」に変わっています。
大変インパクトある名前ですが、企業名は育毛のスカルプケアの会社です。
こんな駅の切符などを持っていれば髪の毛も生えてくるかもしれませんね。

黒生町=クロハイチョウ なのだが、どうしても「クロナマ」でビールを思い浮かべてしまう。
しかしこのビールには何も関係していない。
県道254号線はこの先端部分をバイパスして少し高台を通っているのでなかなかこちら側には来ない。
ポートタワーに立ち寄ったが、平日でまた天気もあまりよくなかった為かどうか知らないが、あまり客はいなかった。
閑古鳥が鳴くようなお魚センターの店を冷やかしながらタワーの2Fにあるレストランの入口を覗いて、あまり価格と内容が魅力的ではない気がしてパスしてしまった。
そして更にその先の先端まで行ってみた。
岩がごろごろ、また波消しの防波堤がたくさん沖のほうまで置かれていた。

ここで引き上げたが、この先に少し行くと、「一山いけす」という銚子では比較的有名な魚料理屋がある。
私のランチで行くような店ではないのでいつもパスしている。
この一山いけすの店の近くにこの銚子黒生海岸沖で遭難した美加保丸の碑が立っている。
地元におかれた碑には
「慶応4年(1868年)8月に、戌辰戦争の過程で幕府の海軍の副総裁・榎本武揚の指揮のもとに北海道へ逃亡を企てた幕府軍艦8隻は銚子沖で暴風雨に遭い、その中で美加保丸が黒生海岸で沈没しました。死者は13人に上り漂着の場に葬られました。その後、明治15年(1882年)に、美加保丸の遭難碑が地元民の手で建立されました。目の前には太平洋の素晴らしい景色が広がります。」
この碑の下には遭難した人々の遺骨や当時の武器などが埋められているといわれています。
いずれにしても銚子沖は歴史的にも何艘も船が座礁したり沈没しています。
古くは南北朝時代に南朝方の北畠親房が東国に支援を求めるためにやって来て、ここから先に進めずに香取の海の内海に入って稲敷郡の東條浦に上陸しています。
また、慶応4年に播州龍野藩の神龍丸が銚子沖でしました。
この船に乗っていた国木田専八は銚子に住むことになり、新生村(現在の銚子市新生町)に住んでいた「まん」と知り合い、生まれた子供が国木田独歩です。(明治4年7月生まれ)
いろいろな歴史的な出来事が起こっており、歴史に影響を与えています。
そこは観光エリアとしては「銚子マリンタワー」とお魚市場などがある程度であまり見るところはない。
しかし「黒生(くろはい)」と呼ばれる地名があり、この名前の由来が気になったからでもある。
この地名の由来は良くわからないので、追って調べて見ようと思うが、近くを走る銚子電鉄の駅名「笠上黒生駅(かさがみくろはええき)」は企業にネーミングライツ権を譲渡し、2015年~2018年までに「髪毛黒生駅(かみのけくろはええき)」に変わっています。
大変インパクトある名前ですが、企業名は育毛のスカルプケアの会社です。
こんな駅の切符などを持っていれば髪の毛も生えてくるかもしれませんね。

黒生町=クロハイチョウ なのだが、どうしても「クロナマ」でビールを思い浮かべてしまう。
しかしこのビールには何も関係していない。
県道254号線はこの先端部分をバイパスして少し高台を通っているのでなかなかこちら側には来ない。
ポートタワーに立ち寄ったが、平日でまた天気もあまりよくなかった為かどうか知らないが、あまり客はいなかった。
閑古鳥が鳴くようなお魚センターの店を冷やかしながらタワーの2Fにあるレストランの入口を覗いて、あまり価格と内容が魅力的ではない気がしてパスしてしまった。
そして更にその先の先端まで行ってみた。
岩がごろごろ、また波消しの防波堤がたくさん沖のほうまで置かれていた。

ここで引き上げたが、この先に少し行くと、「一山いけす」という銚子では比較的有名な魚料理屋がある。
私のランチで行くような店ではないのでいつもパスしている。
この一山いけすの店の近くにこの銚子黒生海岸沖で遭難した美加保丸の碑が立っている。
地元におかれた碑には
「慶応4年(1868年)8月に、戌辰戦争の過程で幕府の海軍の副総裁・榎本武揚の指揮のもとに北海道へ逃亡を企てた幕府軍艦8隻は銚子沖で暴風雨に遭い、その中で美加保丸が黒生海岸で沈没しました。死者は13人に上り漂着の場に葬られました。その後、明治15年(1882年)に、美加保丸の遭難碑が地元民の手で建立されました。目の前には太平洋の素晴らしい景色が広がります。」
この碑の下には遭難した人々の遺骨や当時の武器などが埋められているといわれています。
いずれにしても銚子沖は歴史的にも何艘も船が座礁したり沈没しています。
古くは南北朝時代に南朝方の北畠親房が東国に支援を求めるためにやって来て、ここから先に進めずに香取の海の内海に入って稲敷郡の東條浦に上陸しています。
また、慶応4年に播州龍野藩の神龍丸が銚子沖でしました。
この船に乗っていた国木田専八は銚子に住むことになり、新生村(現在の銚子市新生町)に住んでいた「まん」と知り合い、生まれた子供が国木田独歩です。(明治4年7月生まれ)
いろいろな歴史的な出来事が起こっており、歴史に影響を与えています。
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