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石岡地方のよもやま話(その1)-古東海道の終点

 石岡地方のよもやま話の第1回目は「石岡は古東海道の終点都市」です。

これは私がこの石岡に住み(2006年)、地域紹介などのHP「1300年の歴史の里 石岡ロマン紀行」やブログ「まほらにふく風に乗って」を書くきっかけになった話でもあります。

常陸国は大和朝廷の東国進出に伴い、大化の改新(645年)の直後、またはもう少し後の7世紀後半頃に成立した国と考えられています。
そして大和朝廷は大和の五畿内(大和、山城、河内、和泉、摂津)から七街道(東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道)という大和朝廷の勢力範囲にあった国々を結ぶ街道を整備しました。この街道はそれぞれの国の国府をつなぐものとなっていました。
常陸国はこの中の東海道(江戸時代の東海道と区別するために古東海道と呼びます)の国となり、現在の石岡が常陸国国府であったため、石岡(常陸国府)は古東海道の終点都市となりました。

古東海道の国とその国府は、伊賀国(伊賀市上野)、伊勢(三重県鈴鹿市広瀬町長者屋敷)、志摩(三重県阿児町)、尾張(愛知県稲沢市)、三河(愛知県豊川市)、遠江(静岡県磐田市)、駿河(静岡市)、伊豆(三島市)、相模(海老名市)、甲斐(笛吹市春日居町または三坂町)、武蔵(東京都府中市)、安房(千葉県南房総市(旧三芳村)府中)、上総(千葉県市原市)、下総(千葉県市川市)、常陸(茨城県石岡市)となります。

江戸時代の東海道は江戸日本橋から京都三条大橋までですから中間部を除くとかなり違いがあります。
また大きな違いは東京湾を船で渡っていたことや、富士山の噴火で一時ルートがかわったこと、また武蔵国は最初は東山道に属していましたが、行き来に不便であることなどから東海道に組み入れらえました。

東京湾は横須賀市の走水から千葉県の富津岬、木更津あたりに渡っていたようです。このため奈良などの都に近い側が上(かみ)となり上総国となり遠い側が下総国となりました。

これらのルートは大化の改新(645年)より前の4~5世紀頃から徐々に固定されていったようです。

こうした事実を知っていくと今の歴史の見方が変わってきますので面白いですね。
これが歴史嫌いの筆者が、「埋もれた歴史」などを探る原点だと考えています。

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(風のことば絵 兼平智恵子 作)

石岡地方のよもやま話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/11/21 10:24
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