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石岡地方のよもやま話(その2)-石岡と正岡子規

 俳人正岡子規は大学生であった明治22年4月3日から7日にかけて、第一高等中学校(現東大)の友人と2人で同学年の親友であった水戸の菊池謙二郎氏を訪ねて旅行をしています。
当時水戸までは小山経由で鉄道で行けましたが、本郷の常盤會寄宿舎から水戸まで3日間かけて水戸街道を歩いて旅行しました。
本郷から千住-松戸-我孫子を通って藤代の2軒しかない旅籠の1軒である銚子屋という宿に1泊しました。
しかし、夜は寒くて早く、宿の待遇もあまりよくなく、枕が堅く寝心地も悪かったと書かれています。

翌日は小雨で傘をさして牛久-土浦-中貫-稲吉を通って石岡の萬屋(よろずや)に泊まりました。
雨で寒くて気分も滅入っていたのですがこちらの宿は前の晩に比べて待遇がよく、大いに喜んでいます。

この様子は東京に戻ってから書いた「水戸紀行」の中に詳しく書かれており、当時の石岡の様子がよくわかります。

「・・・ 石岡は醤油の名處也 萬屋は石岡中の第一等の旅店也 さまて美しくはあらねどもてなしも厚き故藤代にくらぶれば數段上と覺えたり 足を伸ばしたりかゞめたりしながら枕の底へいたづら書なとす  ・・・・」

当時、まだ常磐線は通っておらず、石岡の町は高浜から霞ヶ浦を経由して東京まで汽船(高浜汽船)が周航していました。このため、多くの商人たちも石岡の宿に宿泊し、街には醤油工場や酒造所の大きな煙突が何本も聳え立っていました。

当時の萬屋(よろずや)旅館は水戸街道沿いにありました。今の石岡駅前の大通り(御幸通り)の突き当たりにあるカギヤ楽器さんです。
明治34年に発行された「石岡繁昌記」(平野松次郎著)には「旅館 萬屋増三・・・四方御客様益々御機嫌克奉欣賀候、御休泊共鄭重懇篤に御取扱申べく候(本店:香丸町、支店:停車場前)」と書かれていて、この本店が子規が泊まった場所です。
支店は石岡駅ができて(明治28年)、駅前に支店を作ったと思われます。

しかし、時代が流れ、鉄道が運行されるとしだいに人や物の流れも代わり、汽船が廃れ、この萬屋旅館も止めてしまい、鍵屋玩具店さんとなり、現在のカギヤ楽器とピノキオトーイというおもちゃ屋さんとに分かれました。

正岡子規は水戸では親友の菊池謙二郎氏が入れ違いで東京に出て行ってしまったために会えずに舟遊びなどをして帰路は水戸線経由で上野まで列車に乗っていますが、元来体の弱い子規は帰京一ヶ月後の5月9日に喀血しこれが後の病に伏せる原因に成ったとも言われています。

子規は石岡の宿を出立した時は天気は回復して筑波山を左手に見ながら水戸へむかい、次の歌を残しています。

・二日路は筑波にそふて日ぞ長き
  (歌碑が中町通りの金刀比羅神社境内にあります)

・白雲の蒲團の中につゝまれてならんで寐たり女體男體

水戸の学友菊池謙二郎さんは正岡子規の学生時代の数少ない親友の一人で、藤田東湖を中心とした水戸学の研究で知られ、後に旧制水戸中学校(現水戸第一高校)校長をつとめました。
学生たちには大変親しまれていましたが、当時の天皇中心や家長制度などによらずに個人の独立を説いた思想が上層部に反感を買い学長を辞しています。

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 (風のことば絵 兼平智恵子 作)

石岡地方のよもやま話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2018/11/22 10:46
コメント
停車場
子規は明治24年には房総の旅をしているようですね。ことし鋸山の日本寺に行ったとき記念碑があるのを見ました。

萬屋がカギ屋の場所とは知りませんでした。そして停車場前に支店。この「停車場」は「ていしゃば」と発音して、当時は駅とは言わないと子供の時に知りました。
というのは、親戚が駅前に居り、その家を呼ぶのに苗字は同じなので場所で呼んでいて「ていしゃば」といえばその親戚を指すものと刷り込まれていました。
忠顕 様
> 萬屋がカギ屋の場所とは知りませんでした。
・・・これもはっきりせずにずいぶん探しました。でも大体あっていると思います。


> そして停車場前に支店。この「停車場」は「ていしゃば」と発音して、当時は駅とは言わないと子供の時に知りました。
> というのは、親戚が駅前に居り、その家を呼ぶのに苗字は同じなので場所で呼んでいて「ていしゃば」といえばその親戚を指すものと刷り込まれていました。

・・・ていしゃばは懐かしい言葉ですね。 その近くに住む人も停車場で呼んでいたというのも面白いですね。

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