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石岡地方のよもやま話(その3)-石岡と徳富蘇峰

 石岡駅も橋上駅となりすっかり様変わりしたが、駅の改札の上には昔からあった「驛岡石」とかかれた古めかしい扁額が掲げられている。
以前の駅にも改札のすぐ上に置かれていたが、黒っぽくて目立たないのであまり印象には残っていない。

この扁額を新駅舎でも残してほしいとの要望も結構あったようだ。

石岡駅01


この扁額は「徳富蘇峰」の書から起こされたものである。

今度の新駅にはこの額の説明がかかれたプレートが改札口通路の壁に架けられている。内容は、

「石岡駅改札上部にある木製の駅名標は、駅舎橋上化工事に合わせて、旧駅舎より移設した。
これは、徳富蘇峰が書したものを彫刻したものである。
1951年(昭和26年)、当時の石岡駅長(笹谷和三郎)や石岡市の窪田婦久の要望により、蘇峰が89歳の時に書した。
彫刻は、蘇峰の秘書、塩崎彦市が行った。
当時、駅長から蘇峰に送った手紙が、神奈川県にある徳富蘇峰記念館で確認できる。
 徳富蘇峰は、1863年3月熊本県に生まれ、ジャーナリスト、歴史家、評論家、政治家として活躍し、1957年11月に94歳でその生涯を閉じた。
 なお、茨城県内に蘇峰が書した駅名標は、水郡線常陸太田駅にも掲示されている。
これは1948年(昭和23年)、蘇峰が85歳の時に書したものである。
この時の常陸太田駅長も笹谷和三郎であり、駅長の要望から当時の衆議院議員山崎猛の尽力により実現した。
原書は、常陸太田市郷土資料館に保存されている。」
とある。

徳富蘇峰は、徳富蘆花の兄で当時のジャーナリストとしてはかなりの重鎮で影響力もあった。
その蘇峰の書いた駅名扁額が茨城県に2箇所あるという。石岡駅と常陸太田駅だ。
この両駅の駅長をしていた「笹谷和三郎」氏が蘇峰にたのんで実現したらしい。

常陸太田駅の駅名看板は下記だ。

常陸太田駅01

さて、どちらかというとこちらのほうが近代的で、石岡駅の方が古臭い。
でもこれが書かれたのは、石岡駅が昭和26年で、常陸太田駅が昭和23年だという。
笹谷和三郎氏は常陸太田の駅長から石岡駅長に移ってきたという。

常陸太田駅は左から右に書かれ、石岡の方が逆向きの右から左になっている。

どうして漢字の横書きの文字方向が違うのでしょうか。
現在は皆左から右に書いているので、右から左は古い時代の表示だと思ってしまうが、どうも少し違うようだ。

調べてみると、そもそも日本語は縦書きと決まっていたのを横書きが始まった時にはどうも方向は決まっていなかった。
鉄道関係でも、切符が左から右、出札口の表示が右から左、寝台車などの表記は左から右、汽車の行先表示は右から左などとかなりバラバラだったという。

1942年(昭和17年)に文部省通達では今と同じ左から右に書くように指導があったというが、当時は戦争がはじまり、敵国のアメリカやイギリスの表示を使うことを避けるため逆に右から左の逆向きの書き方が広がたという。

戦後すぐの頃はまだ混乱しており、新聞が現在の左から右にかくようになったのは讀賣新聞社の「讀賣報知」が終戦後の1946年(昭和21年)1月1日から現在の様式に完全統一したのが最初でした。

でも古いほうがよいというような風潮もありましたので、石岡駅は戦時中に書かれていた右から左の漢字横書きとなったのでしょう。


石岡地方のよもやま話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2018/11/23 16:47
コメント
鉄道の矜持
新しい駅舎は数回訪れたのみですが、旧駅---柱が線路の鉄材を使っていた---にはずいぶんお世話になりました。
今では情報システムでなされる運行管理を殆ど人力で精確に行っていた鉄道の仕事には矜持を見たものです。扁額もその現れでしょうが、切符切り(これも死語でしょうが)から定期券の目視確認から、ポイントの手動切り替えと沢山の人力による業務がありました。

その一環か運行の‘儀式’もありました。電車が駅に到着したときは---急行列車のみだったか---石岡駅に到着を告げるアナウンスが、独特の調子で流れました----い~~しおか~~~~ん という名調子で。
また列車が発車するときには鈍行も全て、汽笛を鳴らしました。蒸気機関車ではポーーッと大音響で。電化されてからもブォーーンと。

いまでは発車時刻になれば粛々と動き出しますね。人力や職人芸的運行作業が激減してから、儀式もなくなっていったのでしょうか。鉄道勤務者の自負・矜持のほうも変わってきたかもと想像します。
長文失礼しました。
Re: 鉄道の矜持
鉄道員に限らず昔の方が仕事に対する姿勢はしっかりしたものがあったように思います。
しかしこれも年寄りはいつでも昔の方が良かった等と思うのが常であり、今の若い人たちがこの情報システムなどの発展で仕事の質も内容も変わってきているからなのでしょう。
職人的なものはだんだん減ってきて確かに私もさびしいものがあります。

今の人たちにも昔の良い所はその精神だけでもしっかりと受け継いでもらいたいですね。
でも今見ていると嘆いているだけだは変わらないように思います。こうして知っていることを残していくのも少しは後のp人の役に立つように思っています。大それたことはできませんが、少しづつでも書き残したいとの思いがしています。
このシリーズがどこまで続けられるかはわかりませんが・・・・。
いろいろまたお教えください。

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