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石岡地方のよもやま話(その4)-陸前浜街道と杉並木

 江戸時代の石岡は江戸と水戸をつなぐ江戸街道=水戸街道の府中宿場でした。
しかし水戸から先も海寄りに宮城県岩沼市まで街道(岩城相馬街道)が続いており、全体として陸前浜街道と呼ばれていました。
江戸--水戸間の宿場町は「江戸-千住-新宿-松戸-小金-安彦-鳥手-藤代-若柴-牛久-荒川-中村-土浦-中貫-稲吉-府中(石岡)-竹原-片倉-小幡-長岡-水戸」となっていた。

府中(石岡)は水戸藩主たちが江戸との往来時に泊まった宿場で現在の中町にあるパン屋「ヴィオレ」の場所付近に谷口本陣と天王社(明治になり八坂神社となり、その後総社宮に合祀された)があった。

街道は現在の石岡の中町・香丸通りを通り、「国分寺府中3」信号を右に曲がって泉町を通り、常磐線の線路の上を通ってそのまま杉並の方に曲がっていた。

この杉並の入り口に「石岡の一里塚」が残されており、その先に昭和30年頃まで日光杉並木のような樹齢250年ほどの大きな杉の並木道が約2kmにわたって続いていた。

江戸時代はあまり杉並木を作ることが許可されず、松並木などが多いが、ここ府中は松平2万石であり、水戸(徳川)藩とは親戚関係があるので杉並木が許されたという。

鉄道で水戸方面からくると、石岡駅手前に遠くからもこの杉並木が良く見えたといい、石岡の人は石岡に帰ってきたとの思いが沸いてきたという。

しかし、この杉の木も手入れは結構大変で、町の発展に邪魔だと切り倒されてしまった。
まあ追剥が出るなどとの話もあり、あまり町の人には歓迎されなかったようだ。

江戸時代は水戸から藩主などが府中に来るときはこの杉並木の水戸寄りの入り口付近に「茶屋場」を設けてここまで出迎えて茶を出したりの接待をしたといわれている。

現在「茶屋場住宅前」信号から少し水戸側から来て少し左に入ったあたりにあり、面積は200坪ほどだったという。
昔は大きな松の老木(延齢の松)があり趣を残していたが、今は何も残されていない。

杉並木のあったところは地名として「杉並」となっていて残っている。この杉並木は両側が高く土盛りされていたという。
今でも一里塚の榎の根元が盛り上げられていて、その面影は少しだが残っている。

また、若松町の方から鹿の子を通り、柿岡まで続く柿岡街道があるが、こちらは鹿の子の先に松並木が続いていたという。

PB180008s.jpg
(風のことば絵 兼平智恵子 作)

石岡地方のよもやま話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2018/11/24 16:32
コメント
杉並
杉並の道はほこりっぽい道に国鉄バスが走っていたのが記憶に残っています。深緑とベージュの車体の横にツバメのレリーフを付けたバス。国鉄スワローズという金田正一投手で有名だった球団がありましたがその名前どおりツバメがシンボルで。

道路が舗装されたのは60年代だったかそれ以後か。それまでは、砕石は敷いてあっても関東ローム層の細かい土ほこりが、バスに舞い上げられて道端の木々も草も真っ白になっていました。雨が降れば泥濘に。

50年ほど前までは、それ以前の昔昔と同様の道だったのだろうなぁと思いを致すものです。
Re: 杉並
忠顕 様

昔の思い出はやはり私には書けませんが、思い出話を聞けてうれしいです。
線路をまたぐ橋の上に説明板と昔の馬車などが走っていたころの写真があります。
写真ではやはり道は悪そうですね。
でも江戸時代でも水戸街道ですからそれなりの往来はあったのでしょう。
杉並木を残して観光名所として整備する考えもあったでしょうにどこもかしこも新しくするのが好まれているようです。
残念ですね。

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