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石岡地方のよもやま話(その5)-昭和の大火

石岡の街も歴史に残る大火はいくつもある。
939年の平将門の国府襲撃で多くの神社や300戸ほどの家屋や焼かれたという。
また1590年には佐竹氏などによる府中城攻略で街中も含め町中が焼けたといわれている。この時の街の再建は1597年から佐竹氏の手で行われた。
江戸時代になり、1727年におきた大火は守木町から起こり、中町・金丸・守横・富田・幸町・香丸・仲之内・泉町を延焼し、547軒が焼けた。戦さ以外での一番の大火となった。

江戸時代にも100軒を超える火事が数回あり、災があったが、幕末の天狗党による焼き討ちでは約160軒ほどが焼けた。

明治以降も明治3年の長法寺(若松町)の大火、明治41年の国分寺の大火などがあったが、なんといっても
昭和4年の石岡市街でおきた大火は市街の1/3が焼失するという大きな被害を出した。
被災した家屋は約2000棟、被災者役3000人と言われている。
被災した主な建物は、金力比羅神社・常磐銀行・高喜呉服店・国分館・西之宮醤油店・常光院・華園寺・石岡劇場・村上裁縫女学校・家政女学校・明愛貯蓄銀行・松の湯・商華会館などが炎上した。

1年後に今泉哲太郎・義文兄弟により「あゝ石岡大火災」として記録にまとめられ出版された。

一部を抜粋しておこう。
「忘れんとして忘れる事の出来ぬ昭和4年3月14日!・・・朝から吹きつけた西北の風は、午後になってますます勢いを加え、石岡の空は、もうもうと巻き上がる砂塵の煙におおわれて、太陽の光も陰惨な色に曇っていた。ちょうどこの日は、旧暦2月4日の初午にあたり”初午が早い年は火早い”という俗説をなす者もあって、各町内は稲荷祭りの社にさえ灯明を点さず、商家はもちろん、工場、浴場に至るまで1年1度の今日の日に限って焚き物を禁じ、全町はほとんど因襲的に火の戒厳令がしかれた日である。・・・・各戸はようやく夕飯を済ました7時30分ごろ、突然!電線を渡る風の響き?! そは何ぞ図らん。石岡町の心臓-中町の一角にあたって鮮血のような炎が天に向かってほとばしり出んとは。」(あゝ石岡大火災より)

当時、中町のお店の裏手から出火したことはわかったが、出火原因は特定されませんでした。
折からのの風速15mの烈風に煽られて火は瞬く間に拡がって中町にあった細谷商店(油屋)の大きなドラム缶が爆発で中天高く舞い上がり、その油で一気にもえひろがってしまったのです。
消防ポンプの放水の消火では間に合いません。
消防本部も周りの家屋数棟を取り壊し延焼を防ぐのがやっとでした。
結局606戸、1700棟を焼失して鎮火したのです。
中町では丁子屋染物店の土蔵と神社の大鳥居のみが焼けずに残り、通りの前の高喜呉服店の土蔵は無残な姿となっていたとのことです。

下の地図は今の石岡中町付近の地図に火災被害のあった場所を大雑把に記載したものだが、富田町では府中酒造と隣りの北向観音は風向きが幸いし難をどうにかのがれたが、ここから貝地町方面に火が走ったのが見て取れます。

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この火災の後に建てられたのが現在国の登録文化財に指定されている「看板建築」の建物です。
しかし最近まで店の前の歩道の上にアーケード屋根が置かれていましたので壁面の看板などは見ることができず、十年程前にこのアーケードが取り除ぞかれ、現在の街の景観が見られるようになりました。

また昭和4年は昭和天皇が志筑の上の山(御野立所)で軍事演習を見学し、その足で石岡の街の見舞いに来ています。
石岡では3月に大火で町の多くが焼けましたが今の駅前通りの八間道路はその前に申請がなされ、完成したのは昭和4年の10月21日でした。昭和天皇がこの通りの完成直後に石岡に来られ、この道路は「御幸通り」と呼ばれるようになりました。

街中には大火から半年後でしたので、街中にはまだ火災の爪痕が各所に残されていました。
しかし、通りから見えるところには急いで布をかぶせ焼け跡を隠したともいわれています。


石岡地方のよもやま話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/11/25 06:40
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