石岡地方のよもやま話(その6)-府中六井
常陸府中(石岡)は酒の名所でもありました。 そこには街を潤す豊富で良質な湧き水があったのです。
そんな街中に昔から府中六井といわれる名井があり、それらを農薬の制限をしたり、眼の病に効くとしての信仰などで昔から大切にしてきました。
石岡には関東養老の泉といわれる「親は諸白、子は清水」という伝説が残されています。
かつて、常陸府中(石岡)の町は清酒どころとしても昔から名高いところでした。
清酒造りには良い水が必要で、湧水は大変貴重なものだったのです。
鉄分も少なく、酒造りに適していたと言われています。
しかし、その泉や湧き水も、今では水量が大幅に減ったり、枯れてしまったりして面影も薄れてしまい、その場所もはっきりしないものもあります。
また、これらの井戸(六井)も必ずしも六ヶ所とは限らなかったようですが、かつて栄えた府中(石岡)の泉を紹介しておきましょう。
定説となっている六個の井戸は下記の6つです。
<石井の泉>
・涼しさに千歳をかけて契るかな 石井の水の清き流れに
・・・石井の泉は若宮八幡宮の少し先を左に曲がった通り沿いに案内矢印があり、先に進むと住宅の裏側にある階段を下に降りた窪地に石の地蔵と看板が置かれている。水は申し訳程度に流れているが、苔むした淀んだ水できれいとは言えない。
昔は、目の治療にも効く清らかな水で、農薬が出回り始めた時は、この泉の周りは農薬が禁止されたという。

<室ケ井>
・びんずるの谷津に月さす室ケ井の 湧き出づる水の流れ清けれ
・・・この室ヶ井(室貝)のあった場所は6号国道の建設で道路の下に消えてしまいました。歌にあるようにこの湧き水のまわりがツルツル光ったような土の窪地であったという。石岡駅側から細い道を現在の6号を通り越して「平等寺」の方に行く途中にあり、写真集「いしおか昭和の肖像」には、昭和30年12月18日にこの室ヶ井の井戸供養が行なわれた写真が残されている。
6号国道バイパスが昭和36年に完成し、井戸は無くなってしまった。昔は、一日に七へん色が変わるほどの清井であったという。
また、この室ヶ井には景清(平家の猛者として歌舞伎でも有名です)がこの地で生まれ、この水を産水としたとの伝説が残されています。現在の貝地にある「平等寺」があった場所には昔、「国掌屋敷」という屋敷があり、近衛景清(藤原景清、平景清)がこの屋敷で生まれたとする話も伝わっています。
<野々井>
・故郷の野中の清水ぬるければ 物の心を知る人ぞ汲む
・・・国分寺町から笠間へ向かう通称「笠間街道」(旧355号線)が山王川を渡ったすぐ左側あたりにあったといいます。ここを流れる山王川は今では細い排水路のようになってしまいましたが、昔は川遊びなどができたという。
湧き水は、昭和50年に建てられた住宅の床下から湧き出していたといいます。北の谷のホチ水などといわれた井戸と同じかもしれませんが、野の井戸という名前から他の場所も候補に上がっています。
<小目井>
・見ぬ人は汲みて知るらん小目井の 清き流れの千代の行く末
・・・昔、外城といわれた城があった岡田神社が立つ台地(舌状台地)の先端の裾野の方に石碑が置かれている。
この水は眼病に効くと言われ、近隣から、また遠くからも参拝者がたくさんいたという。
昭和30年頃に六井も姿を消していく中で、この小目井も荒れ果てていましたが、これを有志で復活させてH21年4月に井戸(形だけで水はありません)と碑が立てられました。
<鈴負井>
・宮部なる瑠璃の光の薬とて 口にくくめる鈴負井の水
・・・場所は宮部下の先の田圃の中(355線バイパス(旧石岡有料道路)の旧料金所の近く)だ。
ただこのあたりは今でも湧き水が数カ所あり、一か所に特定はされていない。また「鈴負井」は「鈴緒井」とも書いた。
この場所は、大変豊かな田圃があるが、石岡地区では海抜が一番低い低地で、この西側には恋瀬川が流れている。
恋瀬川の向こう側はかすみがうら市の志筑で、こちらには万葉集に歌われた「師付の田井」があります。
こちらの井戸も歴史は古く今でもコンコンと水が流れ出ている。
<杉の井>
・今の世に塵もとどめぬ杉の井の 清きをおのがこころもとがな
・・・泉町の裏通り(ガラミドウ)から杉並の方に行く途中、常磐線の踏切を越えて、更に柏原池から流れてくる山王川を渡ったところに石碑が残されています。今では井戸は枯れてしまいましたが、江戸時代に水戸の殿様が江戸の行き来の時に、水戸街道沿いの杉並木の先にあった「茶屋場」でお茶をたしなむのに、この水が使われたといわれ、奥の小さな祠に「弘法大師」が祀られている。
そんな街中に昔から府中六井といわれる名井があり、それらを農薬の制限をしたり、眼の病に効くとしての信仰などで昔から大切にしてきました。
石岡には関東養老の泉といわれる「親は諸白、子は清水」という伝説が残されています。
かつて、常陸府中(石岡)の町は清酒どころとしても昔から名高いところでした。
清酒造りには良い水が必要で、湧水は大変貴重なものだったのです。
鉄分も少なく、酒造りに適していたと言われています。
しかし、その泉や湧き水も、今では水量が大幅に減ったり、枯れてしまったりして面影も薄れてしまい、その場所もはっきりしないものもあります。
また、これらの井戸(六井)も必ずしも六ヶ所とは限らなかったようですが、かつて栄えた府中(石岡)の泉を紹介しておきましょう。
定説となっている六個の井戸は下記の6つです。
<石井の泉>
・涼しさに千歳をかけて契るかな 石井の水の清き流れに
・・・石井の泉は若宮八幡宮の少し先を左に曲がった通り沿いに案内矢印があり、先に進むと住宅の裏側にある階段を下に降りた窪地に石の地蔵と看板が置かれている。水は申し訳程度に流れているが、苔むした淀んだ水できれいとは言えない。
昔は、目の治療にも効く清らかな水で、農薬が出回り始めた時は、この泉の周りは農薬が禁止されたという。

<室ケ井>
・びんずるの谷津に月さす室ケ井の 湧き出づる水の流れ清けれ
・・・この室ヶ井(室貝)のあった場所は6号国道の建設で道路の下に消えてしまいました。歌にあるようにこの湧き水のまわりがツルツル光ったような土の窪地であったという。石岡駅側から細い道を現在の6号を通り越して「平等寺」の方に行く途中にあり、写真集「いしおか昭和の肖像」には、昭和30年12月18日にこの室ヶ井の井戸供養が行なわれた写真が残されている。
6号国道バイパスが昭和36年に完成し、井戸は無くなってしまった。昔は、一日に七へん色が変わるほどの清井であったという。
また、この室ヶ井には景清(平家の猛者として歌舞伎でも有名です)がこの地で生まれ、この水を産水としたとの伝説が残されています。現在の貝地にある「平等寺」があった場所には昔、「国掌屋敷」という屋敷があり、近衛景清(藤原景清、平景清)がこの屋敷で生まれたとする話も伝わっています。
<野々井>
・故郷の野中の清水ぬるければ 物の心を知る人ぞ汲む
・・・国分寺町から笠間へ向かう通称「笠間街道」(旧355号線)が山王川を渡ったすぐ左側あたりにあったといいます。ここを流れる山王川は今では細い排水路のようになってしまいましたが、昔は川遊びなどができたという。
湧き水は、昭和50年に建てられた住宅の床下から湧き出していたといいます。北の谷のホチ水などといわれた井戸と同じかもしれませんが、野の井戸という名前から他の場所も候補に上がっています。
<小目井>
・見ぬ人は汲みて知るらん小目井の 清き流れの千代の行く末
・・・昔、外城といわれた城があった岡田神社が立つ台地(舌状台地)の先端の裾野の方に石碑が置かれている。
この水は眼病に効くと言われ、近隣から、また遠くからも参拝者がたくさんいたという。
昭和30年頃に六井も姿を消していく中で、この小目井も荒れ果てていましたが、これを有志で復活させてH21年4月に井戸(形だけで水はありません)と碑が立てられました。
<鈴負井>
・宮部なる瑠璃の光の薬とて 口にくくめる鈴負井の水
・・・場所は宮部下の先の田圃の中(355線バイパス(旧石岡有料道路)の旧料金所の近く)だ。
ただこのあたりは今でも湧き水が数カ所あり、一か所に特定はされていない。また「鈴負井」は「鈴緒井」とも書いた。
この場所は、大変豊かな田圃があるが、石岡地区では海抜が一番低い低地で、この西側には恋瀬川が流れている。
恋瀬川の向こう側はかすみがうら市の志筑で、こちらには万葉集に歌われた「師付の田井」があります。
こちらの井戸も歴史は古く今でもコンコンと水が流れ出ている。
<杉の井>
・今の世に塵もとどめぬ杉の井の 清きをおのがこころもとがな
・・・泉町の裏通り(ガラミドウ)から杉並の方に行く途中、常磐線の踏切を越えて、更に柏原池から流れてくる山王川を渡ったところに石碑が残されています。今では井戸は枯れてしまいましたが、江戸時代に水戸の殿様が江戸の行き来の時に、水戸街道沿いの杉並木の先にあった「茶屋場」でお茶をたしなむのに、この水が使われたといわれ、奥の小さな祠に「弘法大師」が祀られている。
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