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石岡地方のよもやま話(その11)-太田三楽斎、秀吉を怒らせる。

 太田三楽斎(資正:すけまさ)は戦国末期に石岡の片野・根小屋地区にある「片野城」の城主であった。
いまでもこの地にて行われている「排禍ばやし」という祭りは、この三楽斎が禍を取り払うために始めたという。

しかし、この戦国武将のことは、石岡や八郷地区の地元の人々の間であまり話題にならない。

戦国武将としては大きな城は取れなかったし、攻め取った埼玉県の岩付城も息子に裏切られて城から追い出されてしまった武将である。

しかし、これも義に篤く、越後の上杉氏、直江兼続などとの信を貫き、北条氏と対抗したことによる。

行き場を失った山楽斎を北条氏と対抗していた佐竹氏が拾い上げて、常陸で勢力争いをしていた小田氏と対抗するための要所となった片野城へ入れた。

そして見事に手這坂で小田軍を打ち負かす大活躍をした。
この戦いで小田氏は小田城をも攻略され、佐竹氏に奪われてしまった。

やはり、北条氏との覇権争いで、味方となる兵を大勢集めて大軍で小田原城攻めを行っていた豊臣秀吉に呼ばれて、三楽斎は秀吉に会いに行った。

秀吉に接見した時の話は、元禄年間に書かれた軍記物「奥羽永慶軍記」に詳しく書かれている。

秀吉はこの常州片野の住太田三楽斎について、東国に隠れなき武勇の老武者であり、天下広しと言えどもいまだに城が採れていないのは不思議だと言った。

そして、今の小田原城攻めのことを聞かれて、三楽斎は天下人の秀吉に対し、臆することなく自分の考えを次のように言った。

「この小田原城は一方を荒海に面し、三方は山に囲まれており攻めるには困難な名城である。またこの城を築いた北条氏康も地の利を得ており、氏康・氏政親子二代の間に関八州の内の5か国を味方につけている。この城に立て籠もって、中の軍勢が5~6万にいてもこれから先10年は困らないくらいの兵糧を貯めているだろう。
今のような多勢での力攻めでは、この城を攻略することは到底かなわない。 ここは計略をもって、攻め取るのがよろしい。」
と今の城攻めに注文を付けたのです。

すると、秀吉は途端に機嫌が悪くなり、「三楽斎はこの数年北条と戦い、負け続けた。その時から臆病神に取り付かれてしまったようだ」といい、三楽斎はその場を去り、隣りの陣にいた石田三成、増田長盛にむかって次のように言った。

「今殿下に小田原攻めについて尋ねられたので、愚案を申し上げたところだ。 この三楽は確かにここ数年北条と相戦ってきたが、その武功は他の者たちと比べて決して劣ることなどない。この小田原城を計略なくしてして攻め落とすことができたならこの入道(三楽斎)の命を懸けても良い。 今私の評判がこのように損ねているようだが、これも卑怯なことは何一つしていない。天運が尽き、敵に領土を奪われて、今かかる不詳の身となってしまったのは面目ないことだ」

この小田原城攻めは、その後三楽斎の言うとおり計略で落ちた。 

軍記にはこのようなことが記されていますが、この三楽斎がこの時に片野の小さな城にいたのです。
これだけの知将と言われていますが、自身でいったように義に篤く、上杉家との恩を最後まで裏切ることはなかったといわれています。

大掾(だいじょう)氏の本拠城である府中城が佐竹氏によって攻め落とされたとき(1590年)、この三楽斎はこの片野城にいました。
しかし、その前に、この大掾氏との間でも血縁関係もありあまり目立つ戦いは仕掛けていません。

府中城が落ちた後、佐竹氏はこの城を三楽斎に預けようとしたといいます。
しかし、三楽斎はもう老骨の出る幕ではないとしてこれを固辞したのです。
結果、府中城は佐竹義重の弟の佐竹義尚(よしひさ)に預けられました。
三楽斎はこの翌年静かにこの片野で亡くなりました。

太田三楽斎(資正)は太田道灌の曾孫といわれています。
また日本で初めて軍用犬と呼ばれる「三楽犬」を使った事でも知られます。

いまでも片野地区の山の中に片野城の跡とこの三楽斎の墓と言われる五輪塔が眠ったようにあります。

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石岡地方のよもやま話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/12/07 09:01
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