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石岡地方のよもやま話(その12)-柿岡サーカス

 柿岡曲馬団というサーカス団が昔あった。
名前の通り馬などをつかって曲芸をしたりするサーカス団で人気を博していた。

そのサーカスの団長であった柿岡春二郎の墓が石岡市柿岡の善慶寺(曹洞宗 禅寺)にある。

昔、テレビなどなかった時代にはサーカスの興業が地方でも数多く行われ活況を呈した。
木下サーカスやキグレサーカスや、モスクワのボリショイサーカスなどが年配者には懐かしく思われるだろうと思う。

 その中でこの柿岡曲馬団は明治時代後期から昭和初期まで人気の大きなサーカス団でした。

柿岡と名前がついていますが、本名は荒川春二郎です。
この柿岡の地にお墓があるので、この地の人かと思うと、これは少し違うようです。

春二郎は青森県八戸に明治4年に生まれます。
一家は祖父が会津戦争で戦死し、青森にやって来ました。 当時多くの会津人が青森に逃れてきたといいます。
一家は貧しく、春二郎は、若い時に横浜に出て小さなサーカス小屋の番頭となりいくつかの小屋を渡り歩きます。

そして明治39年に柿岡一座(柿岡興業部)を興し、明治42年に大阪で喝さいを浴びて東京両国や浅草で興行を行って人気の一座になりました。

 大正時代には大変な人気で、団員は150名以上。当時はサーカス(曲馬団)がいくつもあり、その中でも一番の人気で二番目が木下大曲馬(後の木下大サーカス)だというのですから、人気の程がわかります。

出し物は、「大曲馬曲乗」「猛獣曲芸(熊)」「自転車曲乗」などです。
当時の写真絵葉書などに「2頭の馬の背に3人の少女が乗って曲芸」「男性がバランス棒のようなもので片手倒立し、もう一方の手で2枚の皿回し」などのものがあります。

大正12年の関東大震災の時には、いち早く罹災者を慰安するためにチャリティ(2日間無料)で公演を行なっています。
その時の興業には「柿岡曲馬」「木下曲馬」「宮田洋行」「矢野曲馬団」「有田洋行会」「柴田曲馬団」「麻田洋行」などの名前がつづられています。そのトップが柿岡曲馬の名前となっています。

 柿岡春二郎は大正三年に分家して、現石岡市の柿岡に戸籍を移します。
柿岡曲馬団という名前は前から使っていましたので、同じ地名のこの地に縁を感じていたのかもしれません。

しかし主に住んでいたのは宇都宮だったといいます。
ただ、吉生(よしう)から養女をもらい、一座はほぼ活動は終わっていた戦後になってこの柿岡に移ってきました。

昭和29年に柿岡で死去。84歳でした。墓は柿岡の善慶寺にあり、亀の背に乗った墓石です。

この善慶寺は柿岡城跡に建つ柿岡小学校のすぐ隣にあります。
このお寺は、1590年に佐竹氏族の長倉氏(長倉義興)が、常陸大宮市の長倉城から柿岡城に移ってきたときに、やはり長倉にあった善慶寺がこちらに移ってきたといわれています。
現在長倉(御前山と那珂川を挟んで反対側)のその寺のあった場所には「蒼泉寺」というお寺が建っています。

しかし、この長倉義興(よしおき)は些細なことで佐竹義宣に逆らい、慶長4年(1599)常陸太田の正宗寺に幽閉され、1600年4月に死んだが、その死因は毒殺された可能性があるとされます。

これにより柿岡の長倉氏は滅んでしまいましたが、同じ年に、佐竹義宣も家康により出羽石(秋田)へ転封になってしまいました。

このように柿岡も佐竹氏系の長倉氏が治めていた期間は短い(10年)のですが、現在の柿岡のお祭「八坂神社の祇園祭」はこの長倉義興が始めたものだといわれています。

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(サーカス集団「柿岡曲馬団」の柿岡春二郎の墓:亀の背に乗っている)

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(善慶寺)



石岡地方のよもやま話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2018/12/09 05:07
コメント
遠い記憶の ‘柿岡’
むかし親から聞いた話を記憶していて‘柿岡’は気持ちが反応する地名です。先祖の誰かが柿岡の殿様の侍医をしていたので屋敷に門を賜ったという話でした。
話を聞いて、門なんかもらう誉れがあったのかと感心した事と、柿岡のお城が小学校の場所だったと知ったことだけ覚えています。
Re: 遠い記憶の ‘柿岡’
忠顕 さま 柿岡もいつごろからある地名なのかよくわかりません。
かなり古くからあるのですが・・・・
石岡の街中にいれば柿岡は町でも少し離れた所なんでしょうね。
今は少しさびれ始めているようにも思います。石岡も同じですが。

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