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石岡地方のよもやまばなし(その14)-お祭り起源

 「石岡のおまつり」の起源についてはさまざまな話が飛び回っています。
でも、この祭りは明治35年から始まったものです。
そう、それも山車はそろわないし、人形などもまだまだバラバラ。
特にお囃子が石岡にはなかった。
三村や染谷に伝っていた囃子を祭りのときだけ人ごと借りてきてやった。
この調整が一番のネックだったという。

明治33年に常陸国総社宮が郷社から県社に昇格した。
それまで総社では9月9日の重陽の節句に例大祭が行われていました。
これは長いこと続いてきた神社の儀式(氏子たちのお払い)と江戸時代から始まった角力(相撲)が行われてきていた。

この相撲も毎年行うといっても江戸時代には街の中に別な賑やかな行事があった時は、観客が一人もいなかったなどという記録もあったと言われている。

この例大祭の時に氏子たちが中心となって何とか他の府中(国府)などで行われている祭りを見返してやれるような祭りを作りたいと願った。
当時、石岡は鉄道と汽船が運行されており、醸造と製糸産業で工場や問屋商人たちで街はにぎやかだった。
元気一杯、活気があったのです。

そして各町で知恵を出し合い、この町にふさわしい祭りを1年かけて練ったといいます。
そして今の祭りの原型ができた。

この時に昔行われていた中町の天王社(後に八坂神社)の祭りを基準に出し物を復活させようと考えたのでしょう。
でもこれは祇園祭だ基調だ。総社のお祭りにするためにいろいろ工夫したようだ。

またその前に石岡に伝わっていた獅子頭、獅子舞なども取り入れ、江戸で使われなくなった山車を買い付け、そこに載せる人形も江戸の人形師の処へ出向いて調達した。
何の人形を選ぶかは、まあ金のあるところから早い者勝ちだ。

そして、祭りを行うには財政的な面や負担が集中しないように年番を決めて行うこととしました。

明治35年8月29日に当時、元真地にあった町役場の2階で区長さんが集まって年番の順番を決めるくじ引きを行うことになりった。

くじの順番を決める本数は16本でした。 最初16の町(区)の予定でしたが、ところがこの日集まったのは17区の区長さんでした。

くじが1本足りなくなってしまったのですが、貝地町に外れてもらい順番は最後にするからと口約束して、残りの16町でくじを引いた。

森木(守木)町/大小路/土橋町/金丸町/守横町/富田町/仲之内町/宮下町/青木町/幸町/国分町/中町/若松町/泉町/香丸町/木之地町 の16町です。

そして始まった祭りだが、16年経って一回りして貝地に次ぎ回るはずが、口約束だったので忘れられて最初に戻ってしまった。

最初はこの祭りもなかなか人を集めたりするのも大変だったが、そこは祭り好きが集まって年々賑やかになっていった。

関東三大祭などというキャッチフレーズも板についてきた。
もともと三大祭などというのは決まりはなく、行ったもの勝ちで、世間に認められなければ単なる地元のたわごとで終わってしまうのだが、これも徐々に定着していった。

三大祭とはどこなのかなどとよく聞かれる。
定義などない。 石岡市史、石岡の歴史などの市で発行している本には「佐原ばやし(千葉)」「府中の暗闇祭(東京)」という。
しかし、佐原(現香取市)にいってみるとここは「江戸優り」を合言葉にして「関東三大山車祭」だという。
東京府中の暗闇祭はそれほど盛大な祭りではなく、夜に行われるので「関東三大奇祭」の一つだという。

今の石岡の祭りを見ているとこれは「関東三大古式江戸山車祭」というのが似合っているように思う。
残り「川越祭り」、「佐原の大祭」といったところだろうか。

これらの祭りの利点。弱点などを比較して石岡の立ち居地を固めると特徴あるものになるだろう。

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石岡地方のよもやま話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/12/19 17:11
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