波崎近郊に残された南北朝の足跡
先日今年最後の銚子行きとなったが、神栖市波崎から銚子大橋を渡って銚子に行くことにした。
最近はこのコースが多くなったが、一旦この波崎周辺も探索したので、大抵は主要道路を走るだけになってきた。
しかし、今まで行ったところでももう一度訪れるとしたらどこへ往こうかなどと考えていた。
そして波崎の主道路より利根川よりを平行に走る旧道に行ってみたくなった。
そしてもう一度見たくなったのがここである。

ここもこの道を車で通っていて偶然見つけた場所なのですが、その時は鳥居があって奥にお宮があったので覗いてみたのです。
この日も当たりはきれいに掃き清められており、足跡一つついておりません。
少し足跡を付けるのが申し訳ない気がしましたが、一礼して鳥居をくぐりました。

となりには大きなお屋敷があり、この神社もおそらくこのお宅の敷地の一部かもわかりません。

奥には小さな祠が二つ。 その一つには中に地元の手子后(てごさき)神社の御札が置かれています。
手子后神社については童女の松原で前に特集も書いた茨城独自の神社です。

その隣にある少し小さな祠の脇にこの社の説明が書かれているのです。

「船頭の宮」と書かれています。
時は南北朝時代に南朝方として戦った、新田義貞の四天王と言われた伊賀守・篠塚重広が今の四国愛媛県である伊予国で、敵に囲まれ、そこを突破して隠岐島に逃亡したのです。
そこでしばらく暮らしていたが、地元の農民を船頭にして、隠岐島を脱出して海から利根川に入ってこのあたりに船がたどり着いたのです。
そしてその船頭はもとの隠岐島に戻ることはできずにこの地で生涯を終えたのだそうです。
そしてその後、この地(本郷)の人たちが、この船頭の御霊を安らかなることを願って祠を建てたというものです。

この祠の屋根の家紋は「笹竜胆(ささりんどう)」です。これは源氏の家紋です。
新田義貞一族も源氏の家紋のようですね。
そういえば同じ南朝の北畠親房も東北に向かう途中、船が銚子から進めずにこの利根川を遡ってこの先の稲敷の方に入ってきました。
その後ここから筑波の小田城へ入ったのでした。
このようなところを知ると、なぜかこんなわけのわからない時代の歴史が身近に思えてくるから不思議です。
このように「埋もれた歴史を掘り起こす」ことも何か意味がありそうに思えるのです。
最近はだいぶサボっていますが、来年もまた少しは埋もれた歴史の掘り起し散策も続けたいですね。
最近はこのコースが多くなったが、一旦この波崎周辺も探索したので、大抵は主要道路を走るだけになってきた。
しかし、今まで行ったところでももう一度訪れるとしたらどこへ往こうかなどと考えていた。
そして波崎の主道路より利根川よりを平行に走る旧道に行ってみたくなった。
そしてもう一度見たくなったのがここである。

ここもこの道を車で通っていて偶然見つけた場所なのですが、その時は鳥居があって奥にお宮があったので覗いてみたのです。
この日も当たりはきれいに掃き清められており、足跡一つついておりません。
少し足跡を付けるのが申し訳ない気がしましたが、一礼して鳥居をくぐりました。

となりには大きなお屋敷があり、この神社もおそらくこのお宅の敷地の一部かもわかりません。

奥には小さな祠が二つ。 その一つには中に地元の手子后(てごさき)神社の御札が置かれています。
手子后神社については童女の松原で前に特集も書いた茨城独自の神社です。

その隣にある少し小さな祠の脇にこの社の説明が書かれているのです。

「船頭の宮」と書かれています。
時は南北朝時代に南朝方として戦った、新田義貞の四天王と言われた伊賀守・篠塚重広が今の四国愛媛県である伊予国で、敵に囲まれ、そこを突破して隠岐島に逃亡したのです。
そこでしばらく暮らしていたが、地元の農民を船頭にして、隠岐島を脱出して海から利根川に入ってこのあたりに船がたどり着いたのです。
そしてその船頭はもとの隠岐島に戻ることはできずにこの地で生涯を終えたのだそうです。
そしてその後、この地(本郷)の人たちが、この船頭の御霊を安らかなることを願って祠を建てたというものです。

この祠の屋根の家紋は「笹竜胆(ささりんどう)」です。これは源氏の家紋です。
新田義貞一族も源氏の家紋のようですね。
そういえば同じ南朝の北畠親房も東北に向かう途中、船が銚子から進めずにこの利根川を遡ってこの先の稲敷の方に入ってきました。
その後ここから筑波の小田城へ入ったのでした。
このようなところを知ると、なぜかこんなわけのわからない時代の歴史が身近に思えてくるから不思議です。
このように「埋もれた歴史を掘り起こす」ことも何か意味がありそうに思えるのです。
最近はだいぶサボっていますが、来年もまた少しは埋もれた歴史の掘り起し散策も続けたいですね。
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