石岡地方のよもやまばなし(その15)-府中経塚
石岡地方のよもやま話などとして前回書いてから1か月近くにもなってしまいました。
この調子ではいつ終わるかもしれません。
先日は「千葉県の難読地名を今年は書く」などと宣言して、調べ始めたら、これがまた大変そうで・・・・ どうしよう??
でもあまり間をあけては忘れられそうなのでこちらの「よもやまばなし」すこしずつ書いていきたいと思います。
今迄にも書いた内容なのですが、今もあまり知られていないことを少し書いておきます。
今日は府中経塚(きょうづか)です。
経塚(きょうづか)というと、末法思想が平安時代後半から鎌倉時代に流行り、浄土教(浄土宗や浄土真宗)の教えが広がり、阿弥陀如来さまにすがって死んだら浄土世界に連れて行ってもらう・・・などとなりました。
末法思想は仏様(釈迦)が入滅後2000年で真の仏法が衰えてしまい、世が乱れてしまうとされていて、それが平安時代末期の1052年から始まるといわれていたのです。
このため、お寺などでは経文を金属製や陶器製の筒などに入れて土の中に埋めて、1000年先の世の中が安定するまで仏法の経典を残そうとしたのです。いわゆるタイムカプセルのようなものです。
石岡にもギター文化館のすぐ前の畑のところに「経筒(石櫃付き)」出土地」の看板があり、もう一か所「北谷経塚」というものが確認されています。
でも今回の話はこの経塚とは少し違い、一字一石経といわれるものです。
平べったい小石に「阿弥陀経・無量寿経・観無量寿経」の全二万六千六百字あまりを一石に一文字ずつ書いて埋めるのです。
これは怨霊などで苦しむ場合に、その霊を鎮めるために行われていたものです。

(この石は、このようなものです。)
ではここから府中経塚のお話です。
「その昔、文字の書かれた小石がザクザクと出てくる畑があり、「府中経塚」と呼ばれていました。
その場所は、石岡市の小目代で、ここに親鸞聖人の伝説が残されていたのです。
その昔この近くに農家があり、そこの嫁さんが親鸞聖人の教えを受けて、毎晩講中に出かけていました。あまりにも続くので、そこの舅は嫁に男ができたものと早合点して、ついには言い争いになり、挙句の果てには、刀で嫁を袈裟がけに切りつけました。
からくも一命を取り留めましたが、その傷がもとで後に亡くなりました。
その後、不吉なことがいくつも続くようになり、ある時に嫁が信仰していた名号「南無不可思議光如来」の掛け軸を開いてみると、掛け軸は見事に袈裟がけに切れていたといいます。
それが今、本浄寺の寺宝として伝わる掛け軸「袈裟懸け名号」です。
また、江戸時代後期、春の日に巡礼がやって来て、経塚から経石を掘り出し持ち帰りました。
それを知った農夫たちも石を掘るようになりました。
領主がそれを聞き、みだりに掘ることを禁じました。
大正時代になり、街道の道路改修工事が行われ、この経塚が道路にかかることが分かり、この遺跡を新道の脇に移すこととなり、「親鸞聖人御旧蹟」と刻まれた大きな石碑が建てられました。
右には「聖跡御経塚」、左には「聖徳太子尊」、中央の前には小さな石が置かれ、仏説無量寿経が記されています。
建設には、本浄寺のほか9ヵ寺、400名近くの信徒たちが名を連ね、大正14年2月1日の完成だといいます。」
(茨石通信「わくわく通信」2010年12月号記事より)

(高浜街道 貝地にある親鸞聖人旧跡碑)
どこまでが真実なのかはわかりませんが、親鸞聖人は越後での流罪が解けた後、常陸国にやってきて布教に努めました。
そして稲田(笠間市)に草庵を構えて、この石岡地方にもたびたびやってきました。
稲田から板敷峠を越え、高浜から舟で鹿島神宮へよく通っていたといわれています。
さて、この話に出てくる「袈裟懸け名号」の掛け軸の話ですが、これは水戸市河和田にある(歎異抄を書いたといわれる)唯円が開いたといわれる「報仏寺」の話とそっくりです。
こちらは「血染めの御名号」と呼ばれています。
こちらの話の概略は、河和田に平次郎という男が住んでいた。大酒のみで仕事もろくにしないどうしようもない男であった。
しかし、彼の妻は信心深く夫の目を盗んでは稲田の親鸞聖人の話を聞きに出かけてたのです。
あるとき、夫の平次郎は妻がこっそりと隠し持っていた御名号を見つけ、よからぬものを持っていて、浮気しているのではないかなどと疑い、とうとう刀で妻の肩から切りつけて殺してしまったのです。
妻の死体を裏の竹林に埋めて、家に戻るとそこには殺したはずの妻がいました。
驚いて、遺体を埋めたはずの土を掘り返すと、そこには死体ではなく「帰命尽十方無碍光如来」と書かれた御名号が出てきました。
しかも「帰命」のところから袈裟懸けに切れ、しかも血で染まっていました。
平次郎はそれから先、心を改め、親鸞聖人の弟子となり「唯円房」となったのです。
親鸞は長いこと常陸国で布教や経典のまとめに時間を費やしてきましたが、後を息子の善鸞に任せて、京に戻りました。
しかし、善鸞が自分の教えとは異なる考え方に染まっていってしまい、破門してしまいます。
そしてその時に、そばの弟子たちに説いて話した内容を書きまとめたのが「歎異抄」(異端の考え方を嘆く)です。
この歎異抄を書いた人物が唯円(ゆいえん)だといわれています。
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
有名な一説ですね。私の中学の国語の先生もこの表現法が好きでした。
「0=∞ ゼロイコール無限大」などとよくわからないことを言っていました。
この調子ではいつ終わるかもしれません。
先日は「千葉県の難読地名を今年は書く」などと宣言して、調べ始めたら、これがまた大変そうで・・・・ どうしよう??
でもあまり間をあけては忘れられそうなのでこちらの「よもやまばなし」すこしずつ書いていきたいと思います。
今迄にも書いた内容なのですが、今もあまり知られていないことを少し書いておきます。
今日は府中経塚(きょうづか)です。
経塚(きょうづか)というと、末法思想が平安時代後半から鎌倉時代に流行り、浄土教(浄土宗や浄土真宗)の教えが広がり、阿弥陀如来さまにすがって死んだら浄土世界に連れて行ってもらう・・・などとなりました。
末法思想は仏様(釈迦)が入滅後2000年で真の仏法が衰えてしまい、世が乱れてしまうとされていて、それが平安時代末期の1052年から始まるといわれていたのです。
このため、お寺などでは経文を金属製や陶器製の筒などに入れて土の中に埋めて、1000年先の世の中が安定するまで仏法の経典を残そうとしたのです。いわゆるタイムカプセルのようなものです。
石岡にもギター文化館のすぐ前の畑のところに「経筒(石櫃付き)」出土地」の看板があり、もう一か所「北谷経塚」というものが確認されています。
でも今回の話はこの経塚とは少し違い、一字一石経といわれるものです。
平べったい小石に「阿弥陀経・無量寿経・観無量寿経」の全二万六千六百字あまりを一石に一文字ずつ書いて埋めるのです。
これは怨霊などで苦しむ場合に、その霊を鎮めるために行われていたものです。

(この石は、このようなものです。)
ではここから府中経塚のお話です。
「その昔、文字の書かれた小石がザクザクと出てくる畑があり、「府中経塚」と呼ばれていました。
その場所は、石岡市の小目代で、ここに親鸞聖人の伝説が残されていたのです。
その昔この近くに農家があり、そこの嫁さんが親鸞聖人の教えを受けて、毎晩講中に出かけていました。あまりにも続くので、そこの舅は嫁に男ができたものと早合点して、ついには言い争いになり、挙句の果てには、刀で嫁を袈裟がけに切りつけました。
からくも一命を取り留めましたが、その傷がもとで後に亡くなりました。
その後、不吉なことがいくつも続くようになり、ある時に嫁が信仰していた名号「南無不可思議光如来」の掛け軸を開いてみると、掛け軸は見事に袈裟がけに切れていたといいます。
それが今、本浄寺の寺宝として伝わる掛け軸「袈裟懸け名号」です。
また、江戸時代後期、春の日に巡礼がやって来て、経塚から経石を掘り出し持ち帰りました。
それを知った農夫たちも石を掘るようになりました。
領主がそれを聞き、みだりに掘ることを禁じました。
大正時代になり、街道の道路改修工事が行われ、この経塚が道路にかかることが分かり、この遺跡を新道の脇に移すこととなり、「親鸞聖人御旧蹟」と刻まれた大きな石碑が建てられました。
右には「聖跡御経塚」、左には「聖徳太子尊」、中央の前には小さな石が置かれ、仏説無量寿経が記されています。
建設には、本浄寺のほか9ヵ寺、400名近くの信徒たちが名を連ね、大正14年2月1日の完成だといいます。」
(茨石通信「わくわく通信」2010年12月号記事より)

(高浜街道 貝地にある親鸞聖人旧跡碑)
どこまでが真実なのかはわかりませんが、親鸞聖人は越後での流罪が解けた後、常陸国にやってきて布教に努めました。
そして稲田(笠間市)に草庵を構えて、この石岡地方にもたびたびやってきました。
稲田から板敷峠を越え、高浜から舟で鹿島神宮へよく通っていたといわれています。
さて、この話に出てくる「袈裟懸け名号」の掛け軸の話ですが、これは水戸市河和田にある(歎異抄を書いたといわれる)唯円が開いたといわれる「報仏寺」の話とそっくりです。
こちらは「血染めの御名号」と呼ばれています。
こちらの話の概略は、河和田に平次郎という男が住んでいた。大酒のみで仕事もろくにしないどうしようもない男であった。
しかし、彼の妻は信心深く夫の目を盗んでは稲田の親鸞聖人の話を聞きに出かけてたのです。
あるとき、夫の平次郎は妻がこっそりと隠し持っていた御名号を見つけ、よからぬものを持っていて、浮気しているのではないかなどと疑い、とうとう刀で妻の肩から切りつけて殺してしまったのです。
妻の死体を裏の竹林に埋めて、家に戻るとそこには殺したはずの妻がいました。
驚いて、遺体を埋めたはずの土を掘り返すと、そこには死体ではなく「帰命尽十方無碍光如来」と書かれた御名号が出てきました。
しかも「帰命」のところから袈裟懸けに切れ、しかも血で染まっていました。
平次郎はそれから先、心を改め、親鸞聖人の弟子となり「唯円房」となったのです。
親鸞は長いこと常陸国で布教や経典のまとめに時間を費やしてきましたが、後を息子の善鸞に任せて、京に戻りました。
しかし、善鸞が自分の教えとは異なる考え方に染まっていってしまい、破門してしまいます。
そしてその時に、そばの弟子たちに説いて話した内容を書きまとめたのが「歎異抄」(異端の考え方を嘆く)です。
この歎異抄を書いた人物が唯円(ゆいえん)だといわれています。
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
有名な一説ですね。私の中学の国語の先生もこの表現法が好きでした。
「0=∞ ゼロイコール無限大」などとよくわからないことを言っていました。
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